第101話 レン

文字数 951文字

 その数日後、
「リュウ、来てみて」
 メイインの弾んだ声に、二階の部屋から階下に降りていったリュウは眼を丸くした。
 リビングにはピアノが置いてあったのだ。
「これは……」
「あなたが練習できるように買ったのよ。中古だけれど」
 そっと鍵盤にふれてみると、ポロン、と鳴った。
 父は音楽教師だった。その影響でリュウもずっとピアノを習っていた。
「何か弾いてみて」
 わくわくした口調でメイインが言い、リュウは少し考えた後、得意なショパンの曲を奏でていく。
 一曲終わると、メイインは盛大に拍手をした。
 その日から、リュウがピアノを弾くそばで、メイインが編み物をする、そんなひとときが二人の日課となった。

 どこかで風が梢を鳴らす音がした。回想からさめ、再び写真に眼をやる。
 自分をはさんで左側に写っている男性に眼をやる。メイインの恋人だったレンだ。
 恋人というより、事実上、二人は夫婦だった。
 正式に結婚しなかったのは、彼は抗日活動をしていて、自分に何かあった時、メイインに害が及ぶのを懸念したためだ。
 細身の、背の高い精悍な男だった。
 レンがこの家を訪れる日は、メイインは楽しそうだった。朝からそわそわして、料理に腕をふるい、レンが来るのを待ちわびていた。そんなメイインはとてもきれいだった。
 三人で囲む食卓はなごやかで、幸せだった。母のようなメイインと父のようなレン。
失くしてしまった家族の幸せが戻ってきた、そんな気さえしたものだ。
 拳法を教えてくれたのもレンだった。 
 ──こんな時代だ。自分と、自分の愛する者を守らなくちゃいけない。
 そう言って、全くの初心者だった自分に丁寧に教えてくれた。

 だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。
 反日活動をしていたレンが逮捕されたのだ。
 正式な裁判すら行われず、レンは処刑された。遺体さえ戻ってこなかった。
 
 その夜、メイインを心配して部屋の前を訪れたリュウの前に、肩を震わせ、声を殺して泣く彼女の姿があった。
 リュウはそんな彼女を包みこむように、そっと抱きしめた。いつかメイインが自分にしてくれたように。
「俺がいる。レンに代わってあなたを守る」
 窓の外には細い銀色の月。街の喧騒もここまでは届かない。
 そこにはまるで、この世に二人だけ取り残されてしまったような静寂があった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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