第85話 後悔

文字数 731文字

 一方、悠哉がブルーレディにたどり着いたのは、市街が空爆される少し前だった。
「おおい、開けてくれ!」
 美夜をかばい、母親を背負いながら裏口のドアを叩く。
 その呼び声を聞きつけ、アレクセイが急ぎドアを開けてくれる。
「ユウヤ!」
 転がるように中に入り、地下室へと階段を降りていくと、仲間たちが駆け寄ってくる。
「よかった、無事だったんだな!」
「遅かったじゃないか。その人は?」
「同じアパートの奥さんと娘さんだ。部屋に取り残されていたんだ」
 状況を説明しながら、悠哉は葉村の妻の方を向いた。
「奥さん、以前、看護婦をしていたとおっしゃってましたね。診ていただけますか」
 うなずいて葉村の妻が前に出てくる。
「そうっと横にして。奥さん、どんな具合ですの?」
 かたわらに座り、雨で濡れた体をタオルでふきながら、たずねかける。
「胸が苦しくて……。いったいここはどこなんです?」
 おびえた口調の母親の手を握り、葉村の妻はさとすように語りかけた。
「ここは南京路にあるナイトクラブの地下室ですわ。もう大丈夫。誰か、お水を持ってきて」
 葉村の妻の言葉に、母親は安堵したように眼を閉じた。隣には母と手をつないだ美夜がちょこんと座っている。
 これで二人は一安心だった。が、ほっとしたのも束の間、周囲を見渡し、悠哉は動揺した声を出した。
「唯ちゃんは? 来ていないのか」
 ああ、と葉村が沈痛な表情で相槌を打つ。
「僕らは、君と一緒だとばかり思っていた」
「一緒に来るはずだった。だが、すれ違ってしまって……。あの二人をかばってここに来るのが精一杯で……」
 唯音はまだ虹口地区にいるのだ。
 自分のせいだ、と悠哉は唇を噛んだ。
 いくら美夜たちを助けるためとはいえ、戦場に唯音を置き去りにしてしまった
のだ。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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