第48話 混沌

文字数 761文字

「彼女はおじさまが戻ってきて、とても嬉しそうね」
「この家を借りた時から、彼女が働いていてくれてね、よくやってくれて助かるよ」
 感謝の念をこめて話しながら、大佐は大きな湯呑みの蓋を開けた。中国式に入れたお茶は、中の茶葉が底に沈んだら飲み頃だ。
 唯音も同じようにしてお茶を飲むと、ヒマワリの種をつまむ。
 仲の良いおじと姪の水入らずのひと時が過ぎていった。街の喧騒もこの静かな家までは届かない。
 唯音と世間話を交わしていた大佐は湯呑みをテーブルに置くと、何気なくたずねかけた。
「唯音は嫁に行く気はないのかね」
 唐突に訊かれ、向かいの椅子に座っていた唯音は、きょとんと大佐を見た。
「いきなりそんなことおっしゃって、どうなさったの」
「いや、唯音も嫁に行ってもおかしくない年齢だと思ってね」
「わたし……考えてみたこともなかったわ」
「年頃なのに考えたこともないとは困った娘だな。好きな相手はいないのかね?」
 返答につまり、唯音はおじから視線をそらした。
「いつまでもクラブの歌手などやってないで、嫁に行ってくれると私も安心なんだが」
「おじさまったら」
「悠哉くんはどうだね? いい青年だが」
「……悠哉さんは、兄みたいな人ですもの」
 ぽつりと答え、ジャスミン茶をこくりと喉に流し込む。
 ……いるわ。好きな(ひと)は。
 けれど、おじの前で素直に口にできなかった。
 リュウのことを話したら、おじは何と言うだろう。
 彼が中国人だからと反対するだろうか。それとも唯音が選んだ相手なら、と賛成してくれるだろうか。唯音には見当がつかなかった。
 さらに以前、悠哉から聞いた話も頭にこびりついて離れなかった。
 ──彼が抗日活動をしているという噂が……。
 上海は日増しに混沌としていくようだった。街では毎日のように何人もの人間がスパイやゲリラの嫌疑で逮捕されていた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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