第95話 自問

文字数 686文字

 アレクセイと別れると、二人は荷物を持って埠頭に向かった。街の中心に近い大桟橋に帰国の船は停泊している。
 手続きをすませ、船室に落ち着くと、唯音は悠哉に向かって告げた。
「ね、船が出るまでまだ時間があるでしょう? わたし、少し散歩してくるわ」
「一緒に行くよ」
 心配げな顔つきの悠哉に、ひとりで大丈夫よ、とほんのり笑ってみせる。
「近くを歩いてくるだけよ。最後ですもの」
「でも……」
「ひとりで歩きたいの。お願い。すぐに戻ってくるわ」
 そう言いながら唯音は悠哉に向かいあって立ち、彼の手に自分の手を重ねた。
「わかっているのよ。いつだってそばには悠哉さんがいてくれて、わたしは守られてきたこと」
「唯ちゃん……」
「気持ちに整理をつけて、この街にさよならを告げたいの。でないと、先に踏み出せない気がして……」
 言葉をつまらせる唯音を、手のひらの小鳥をつつみこむように悠哉はそっと抱きしめた。

 ひとり船室を出ると、唯音はタラップを降り、帰国する人々でごった返す桟橋から、港通りに足を向けた。
 しばらく歩いてから、自分たちの乗る船を振り返る。
 あの船に乗ってしまったら、もう二度とこの街には戻れない予感があった。
 ──日本に戻ったら、結婚してくれないか。
 返事を保留にしたままの悠哉の求婚が、ふっと胸に思い起こされる。
 他の男に心をよせていた自分を、それでも愛し続けてくれた人。
 帰国したら、と唯音は自問するようにつぶやいた。
 自分は悠哉と結婚することになるのだろうか。
 今はまだためらっていても、いずれは彼の想いを受け入れ、妻となり、その子供を産むのだろうか。自分でもよくわからなかった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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