第70話 祖国よりも

文字数 952文字

 背後で銃声を聞きながら、倉庫街を抜けて路地から路地へ二人は走った。
 同じような軒の低い家々。迷路のように入り組んだ場所。
 網の目のように辻々をつなぐ路地を、手を引かれるまま、唯音は彼について走っていた。思考も感情も麻痺してしまっていて何も考えられなかった。
 どのくらい走っただろう。路地の角で二人は立ち止まり、耳をすませた。追手の気配は感じられなかった。
 リュウが息をつき、額の汗をぬぐう。唯音は建物の壁に寄りかかり、呼吸を整えようと胸に手を当てた。
「ケガはないか」
「……ええ」
 激しく波打つ胸に手をやったまま、小さくうなずく。
「しばらくここで休もう。この辺りは迷路のようになってるから、簡単には見つからないはずだ」
「リュウ」
 彼女の呼びかけに彼が視線を当てる。
「なぜ、わたしを助けたの。仲間に銃を向けてまで」
 彼の瞳を見つめ、唯音はたずねた。そのまっすぐな問いに、彼は自分でもとまどうような表情を浮かべた。
「君に危害は加えないと約束しただろう? それに……」
 一度、言葉を切ってから、ぽつりと告げる。
「君を死なせたくなかった」
「……」
 唯音は何と言っていいかわからずに、両手の指を組んだ。
「でも、そのためにあなたは仲間を裏切ってしまったわ」
「そうだな」
 彼は相槌を打って、唯音に静かなまなざしを向けた。 
 どんなに卑劣な真似をしても、救いたかった仲間たち。
 だが一方では決意していた。もしも交渉が破れて彼女に危険が及ぶようなことがあれば、その時は祖国よりも彼女を選ぼうと。
 人質交換が失敗したと悟った時、彼は何よりも彼女を守ろうとしたのだ。 
 それ以上の話を打ち切るように、彼は周囲を見渡した。
「今なら大丈夫だ。送っていこう」
 機械的にうなずく唯音に言葉を続ける。
「どこへ行く? アパートじゃ危ない。見張られているかもしれない。陸戦隊本部か治安局がいい」
「そうだ。抗日活動をしている連中に誘拐されていたと事情を話せば、君を守ってくれる」
 いいえ、と彼女は嘆息し、首を横に振った。
「それより、おじさまの家へ連れていって」
 撃たれたおじがどうなったのか、今の彼女にはひどく心配だった。
 わかった、と短く答え、彼が先になって路地を抜ける。注意を払いながら大通りへ出て、大佐の家のある虹口(ホンキュウ)地区へと足を向ける。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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