第73話 アカシア並木

文字数 739文字

「大佐の葬儀は本国で出すそうだね」
 上海きっての繁華街、南京路。アカシア並木の下、悠哉と肩を並べて歩いていた唯音は伏し目がちにうなずいた。
「ええ、身内が本国から遺骨を引き取りに来たわ」
 やるせない眼をして唯音は頭上を見上げた。アカシアの枝には可憐な花が咲き、行き交う人々に花の雨を降らせている。
「家で心配して、日本に帰ってくるように言われたんじゃないかい?」
 唇の端だけ動かし、わずかに苦笑してみる。
「すごかったわ。上海に来たのはもうひとりのおじなの。おじに言わせると、父なんてね、無理にでも連れ戻して、すぐにどこかに嫁がせるって息巻いているんですって」
「そいつは困るな」
 軽い調子で悠哉が言い、さりげなく問いかける。
「で、唯ちゃんはどうするつもりだい? 本国に帰るのかい?」
 唯音は意外そうに悠哉を見つめ、首を横に振った。
「いいえ、帰らない。わたし、ここにいるわ。悠哉さんだってそうでしょう?」
 髪をさらっとかきやり、きっぱりと告げる唯音に、ああ、と悠哉は相槌を打つ。
「日本はますます軍事国家になってきているからね。今に音楽だって自由にできなくなるかもしれない」
「そんなこと絶対に嫌だわ。わたし、自由でありたい。そのためにこの街に来たんですもの」
 そこまで話して、ひょいと肩をすくめてみせる。
「それに無理矢理結婚させられるのは、ごめんだわ」
 そうだね、と悠哉が小さく笑う。
「ただ、ひとつ心配なことがあるんだ。唯ちゃんが、独立活動家の連中にまた狙われたりしたら……」
 唯音は、ふふっと寂し気に微笑した。
「大丈夫よ。心配ないわ」
「でも……」
「だって、考えてもみて。おじさまはもういないのよ。今度こそ本当にわたしなんて何の利用価値もないわ」
 自虐的なもの言いが悠哉の胸を痛ませる。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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