第72話 哀しみの色

文字数 807文字

 うつろな足取りで通りを横切り、唯音は大佐の家の呼び鈴を押した。
 一度目は反応がなかった。二度目に呼び鈴を押すと、ようやくドアが開いて、中から悠哉が姿を現した。
「唯ちゃん! よかった、無事だったんだな」
「悠哉さんこそ……でも、ケガしてるのね」
 かすっただけさ、と答える悠哉に、唯音はおそるおそるたずねかけた。
「おじさまは?」
 どう話していいか困惑するように悠哉が沈黙する。
「おじさまはどうなったの? 傷はひどいの!?」
「こちらへ……」
 質問には答えずに唯音をうながし、悠哉は奥へと歩き出した。不安に胸をしめつけられながら唯音は後についていく。
 廊下の突き当りの部屋のドアを悠哉は静かに開けた。
「唯ちゃん、気持ちを落ち着けて中をごらん」
 不吉な予感が胸をしめつける。けれど逃げることはできなかった。おずおずと唯音は部屋に足を踏み入れた。
 貴堂大佐はそこにいた。ベッドに横たわり、顔には白い布がかけられていた。
 思わず唯音は後ずさった。
「そんな……」
 蒼白な顔で何度も首を横に振る。信じられるはずが──ない。
「嘘でしょう? 悠哉さん」 
 悠哉は無言でただ唯音を哀し気に見つめている。
 唯音は放心した足取りで歩み寄り、かけられた白い布をそっと取った。
 眠っているように穏やかな表情。だが呼吸は止まっていた。
 布を戻すと体中から力が抜けてしまい、唯音はその場にへたりこんだ。
 じんわりと実感がこみあげてくる
 これは、事実なのだ。
 優しかったおじは自分を助けようとして死んだのだ。
 唯音は眼を閉じ、両手を顔に押し当てた。
 ──わたしが、殺したようなものだわ……。
 自分が拉致されたせいで。彼に恋したせいで。
 出会ってはいけなかった。出会うべきではなかったのだ。
 後悔と絶望に胸が張り裂けそうに痛む。
 許されない恋なら、どうして出会ってしまったのだろう。
 彼女の唇から細い、悲痛な嗚咽(おえつ)がもれ、あたりを哀しみの色に染めていった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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