第103話 闇の中
文字数 880文字
メイインが倒れたのは、それからしばらくしてからだった。
医者は心臓が弱っていると告げた。もう手の施しようがないとも。
「こんな不穏な時代だけど……あなたは生きて。音楽を捨てないで」
それが彼女の遺言となった。
後日、彼女はこの家とすべての資産を自分に残してくれたことを知った。
愛する者を失った哀しみと侵略者への憎悪が、彼を抗日活動に駆り立てた。
レンが生きていれば、メイインはもっとずっと幸福になれたはずだ──。
上海を離れ、共産党の本拠地である延安 へ。そうして再び戻ってきた。上海に詳しい彼は絶好の工作員だった。
延安から戻った日、彼はメイインと暮らした家を訪れた。あるのは思い出ばかりで彼女はどこにもいない家に。
切なさと、苦々しさ。思い出から逃れるように彼は家を出た。
夜には延安から同志がやってくる。が、駅に到着するまでまだ時間があった。
孤独と、この混沌とした街への懐かしさ。とりあえず何か、心を埋めてくれるものを求めて、彼はブルーレディの扉を開けた。
店の賑わいは変わらない。バンドのメンバーも見知った連中だ。
ただ、歌い手だけが違っていた。初めて見る顔だ。真紅のチャイナドレスをまとい、若い──まだ少女といってもいいほどの年頃だ。
彼女が歌いだすと、心が揺れた。
その声は少しだけ、メイインに似ていた。彼女も歌が好きでよく口ずさんでいた。
少女の歌はメイインが自分に差しのべてくれた手を思い起こさせた。
──あなたは生きて。音楽を捨てないで。
彼は彼女の願いに背 く生き方を選んでしまったのだ。
歌い続けている少女と視線が合った。彼はまっすぐに少女を見つめた。
メイインが望んだように、ピアノを弾いての穏やかな生活。そんな考えがふと脳裏をよぎった。
だが、彼はそんな考えを打ち消すように首を横に振った。
もう後戻りはできない。する気もない。
曲が終わり、彼はそれを合図にするかのように背を向けた。次の歌が始まっていたが、振り向こうとはしなかった。
店のドアを開けて彼は賑わう南京路を歩き出した。輝くネオンに彩られた、それゆえいっそう深い闇の中へ。
医者は心臓が弱っていると告げた。もう手の施しようがないとも。
「こんな不穏な時代だけど……あなたは生きて。音楽を捨てないで」
それが彼女の遺言となった。
後日、彼女はこの家とすべての資産を自分に残してくれたことを知った。
愛する者を失った哀しみと侵略者への憎悪が、彼を抗日活動に駆り立てた。
レンが生きていれば、メイインはもっとずっと幸福になれたはずだ──。
上海を離れ、共産党の本拠地である
延安から戻った日、彼はメイインと暮らした家を訪れた。あるのは思い出ばかりで彼女はどこにもいない家に。
切なさと、苦々しさ。思い出から逃れるように彼は家を出た。
夜には延安から同志がやってくる。が、駅に到着するまでまだ時間があった。
孤独と、この混沌とした街への懐かしさ。とりあえず何か、心を埋めてくれるものを求めて、彼はブルーレディの扉を開けた。
店の賑わいは変わらない。バンドのメンバーも見知った連中だ。
ただ、歌い手だけが違っていた。初めて見る顔だ。真紅のチャイナドレスをまとい、若い──まだ少女といってもいいほどの年頃だ。
彼女が歌いだすと、心が揺れた。
その声は少しだけ、メイインに似ていた。彼女も歌が好きでよく口ずさんでいた。
少女の歌はメイインが自分に差しのべてくれた手を思い起こさせた。
──あなたは生きて。音楽を捨てないで。
彼は彼女の願いに
歌い続けている少女と視線が合った。彼はまっすぐに少女を見つめた。
メイインが望んだように、ピアノを弾いての穏やかな生活。そんな考えがふと脳裏をよぎった。
だが、彼はそんな考えを打ち消すように首を横に振った。
もう後戻りはできない。する気もない。
曲が終わり、彼はそれを合図にするかのように背を向けた。次の歌が始まっていたが、振り向こうとはしなかった。
店のドアを開けて彼は賑わう南京路を歩き出した。輝くネオンに彩られた、それゆえいっそう深い闇の中へ。