第24話 誘い

文字数 752文字

 余韻を残しながら唯音の歌が終わり、次いでリュウのピアノの音も止む。ひと呼吸おいてビリーは割れんばかりの拍手につつまれた。
「ブラボー!」
 カウンターの中でマスターも手を叩き、いつもは静かな雰囲気のピアノバーも、今夜ばかりは陽気な賑わいに満ちている。
 舞台でするように唯音は優雅に腰をかがめてお辞儀した。悠哉がピアノに近づき、新しく水割りを満たしたグラスを二人に差し出す。
「二人の、素晴らしい才能に」
 ありがとう、と微笑みながら唯音はグラスを受け取り、やがて拍手が止むと、ベーシストの(ケイ)が口を開いた。
「ところで、彩華(さいか)ってクラブに出ていた、サックス奏者を知ってるかい?」
四馬(スマ)路のクラブだろ。彼、いい音を出してたよな」
「その彼がアメリカに行っちまったそうだぜ」
「何だって !?
「アメリカか。うらやましいなあ」
 いつの間にか、またバンド仲間たちはジャズの話題に夢中になっている。
 ピアノに向かって座ったままのリュウと、そのかたわらの椅子に腰を降ろした唯音はいささか呆れ気味に苦笑した。
「本当に、ジャズ好きな人たちね」
「同感だな」
 ジャズ談義に熱中する面々から、彼が唯音に視線を移す。
「唯音」 
 呼ばれて、グラスを持ったまま、唯音は彼を見返した。
「話はジャズとはまったく関係ないんだが、君は蘇州(そしゅう)に行ったことはあるかい?」
「蘇州?」
 訊き返す唯音に、上海郊外の水郷さ、と教えてくれる。
「いいえ。残念ながら、わたし、まだこの街の外から出たことがないの」
「明日、店は休みだろう? たまには上海を離れてみないか。充分、日帰りできるし、とても美しいところだ。運河に囲まれていて、水の都と呼ばれているんだ」
「素敵ね」
 彼と訪れる蘇州はとても魅力的な気がした。まだ見ぬ水の都に想いを馳せながら、唯音は瞳を輝かせてうなずいた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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