第27話 古都

文字数 1,604文字

 食事を楽しんだ後、店を出て二人は近くの庭園を散策することにした。蘇州は運河と庭園と塔が多くある古都だ。
 そのうちのひとつ、回遊式の庭園を歩きながら、唯音はくすくす笑い続けていた。
「おい、いつまで笑ってる気だ?」
 体裁悪げに言う彼に、口元に手を当てて言葉を返す。
「だって、あなたって上海ではいつもポーカーフェイスだったでしょう? そのあなたにも頭の上がらない人がいたかと思うと、可笑(おか)しくて……」
 こらえようとするが、どうしても笑いがこぼれてしまう。
 子供の頃から知っている夫婦にやりこめられる彼の姿など、普段からは想像もできない。
「勝手に笑っていればいいさ」
 拗ねたように彼がそっぽを向き、唯音はひとしきり鈴のような笑い声をたてた後、やっと話題を変えた。
「本当に蘇州の庭園って美しいのね」
「だろう? 昔の粋人(すいじん)たちはこの街に庭を造り、美女をかたわらに、花鳥風月を()でて暮らすのを夢としたのさ」
 ゆっくりと歩きながら、二人はその夢の跡に視線を巡らせる。
 季節はちょうど花のさかり。桃、桜、牡丹、ハナズオウ。庭園には花々が咲き誇り、池には柳が静かに揺れている。
 花々に彩られた庭園をひと回りすると、リュウが新たに提案する。
「今度は、小舟で運河を巡ってみないか」
「素敵ね。水の都にぴったりだわ」
 庭園からさほど遠くない場所に、観光客相手の船着き場があった。運河には何艘もの小舟が並んでいる。
 船頭と交渉を終えたリュウが先に小舟に乗り込み、手を差し伸べる。
「気をつけて」
 唯音がその手を取り、乗り移ると、船はゆっくりと水面をすべり出した。
 小舟の上から唯音はそっと運河の水に手をひたした。冷たくて心地よい。
 春の穏やかな風に吹かれながら、唯音はふと彼の顔をのぞきこんだ。
「何だ?」
 怪訝そうに問いかける彼に、ほんのり微笑する。
「あのね、あなた、上海を離れてここに来たら、表情が柔らかくなったような気がして」
「そうか?」
「ええ。と言ってもわたしの勝手な印象だけど」
「いや、きっと君の言う通りだろう。上海は騒がしすぎるからね。事件や陰謀や不幸が多すぎる」
 眼を伏せ、唯音と同じく彼もまた運河の水に指をひたす。
「できるものなら、ずっとこうしていたいものだな……」
 唯音はじっと彼を見つめた。こんなに無防備な彼を眼にするのは初めてだった。
「いっそ、ここで仕事を探して暮らしたら? あなたのピアノは素晴らしいもの。きっと仕事くらい見つかるわ」
 身を乗り出し、夢物語のようなことを真剣に口にする唯音に、リュウは苦笑交じりに、
「そうもいかないさ」
「でも……」
「第一、今の俺はピアニストじゃない」
 思いがけず強い語調に唯音は胸に手を当てた。以前にも同じ言葉を聞いていた。
 彼女のとまどいに気づき、水に手をつけたまま、彼はうっすら笑んだ。
「確かに、君の言うように、ずっとピアノだけ弾いていられたらよかったけど」 
「そうできないの?」
「ああ」
 ──リュウ、あなたは生きて。音楽を捨てないで。
 メイインが残した最後の言葉。それを破った。自らの意志で。
「父は音楽教師だった。父に教えてもらってピアノを習い始めた。両親が死んだ後、育ててくれたおばもずっと習わせてくれた。ピアノを弾くは好きだったよ。けれど、みんな昔の話だ」
 それだけ告げると、彼はもう何もつけ加えようとしなかった。
 唯音は言葉を失い、無言ですれ違う小舟を眺めた。
 ピアノを愛しながらも、彼は別の生き方を選んだという。
 では、今の彼は何をやっているのだろう?
 疑問は口にできなかった。触れてほしくない──そんな雰囲気を感じたからだ。
 二人の間を沈黙が漂い、静かな運河に櫂が水を切る音だけが響く。
 前方できらり、と光が反射し、唯音は眼を細めて手をかざした。
 運河にかかる太鼓橋、その向こうに夕陽が沈もうとしている。
 茜色に染まる水の上を、二人を乗せた小舟はひっそりとすべっていった。




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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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