第10話 危機

文字数 996文字

 船の汽笛があたりに響き、川風が心地良い夜だった。
 石造りの重厚な建物が並ぶ、異国の街並み。思いがけない初舞台。真紅のチャイナドレス。ステージが終わって口にしたウイスキー・ソーダ。それらすべてが気持ちを高揚させ、警戒心を薄れさせていた。
 大通りを外れ、路地に入る。もうアパートまではわずかな距離だ。
 だが、路地に入ってしばらくした時だった。突然、背後から足音が響き、彼女を追い抜くようにして人影が立ちはだかった。
 何が起こったのか、唯音は咄嗟(とっさ)には把握できなかった。
 その人影──男は何かをつぶやきながら、唯音の腕をつかもうとしてくる。
 ただならぬ気配に、もと来た方角へ引き返そうとする。しかし、駈け出そうとして彼女は足をすくませた。
 いつの間にか、そこにも男たちの姿があった。
 全部で三人、西洋人の水夫だった。
 見覚えのある姿に唯音は体をこわばらせた。先刻、ガーデン・ブリッジにたむろしていた男たち。()けられていたのだ。
 屈強そうな体。強い酒の匂い。彼らは唯音にはわからない言葉を口々に言いながら、彼女を捕えようとしていた。
 危機感が唯音の全身を包み、じりじりと男たちとの距離がつまっていく。
 ひっそりした路地の中で、ひとりが今は住む者もない荒れた家の壁に手をつく。
 唯音はぞっとした。廃屋へ自分を引きずり込むつもりなのだ。
 ──くれぐれも気をつけて。ここは東京じゃないんだからね。
 悠哉の言葉が脳裏をよぎり、いくら自分の迂闊(うかつ)さを悔やんでも手遅れだった。
 残忍な笑いを浮かべながら、男たちはまた一歩、近づいてくる。
 ひとりが唯音に向かって毛むくじゃらの腕を差し伸ばした。彼女はとっさに身をかわした。
 が、次の瞬間、彼女は別の男に手首をつかまれていた。
「離して!」
 振りほどこうとあがいても、鋼鉄のような腕はびくともしない。
 髪に飾っていた花が引きちぎられた。もう一方の手に胸を荒々しくつかまれ、唯音は悲鳴を上げた。
「いやあ!」
 ──誰か……助けて!
 もがきながら、この先起きることの恐ろしさに、きつく眼をつむった時。
 突然、彼女を捕えていた男の力がゆるんだ。男はうめき声を上げ、その場へしゃがみこむ。
 おそるおそる眼を開けた唯音は、そこに別の、もうひとりの男の姿を見いだした。
 東洋人だろう。暗がりの中で、闇にとけそうな黒髪をしている。
 やめろ、とその男は言った。唯音にもわかる言葉だった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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