第23話 音色
文字数 1,254文字
「君が上海から急にいなくなって、みんなで心配したんだぜ。今までどうしていたんだい?」
「仕事で、あちこち回っていたんだ」
「音楽関係?」
「いや、貿易会社の使い走りみたいなものさ」
あまり話したがらない様子に、それ以上訊くのは憚 られた。
唯音はふと彼の横顔に、かすかに翳りを見た気がした。理由はわからないけれど、彼は真実を言っていない、そう感じた。
かかっていたレコードが途切れ、ぎこちない雰囲気を変えるようにマスターが明るく声をかけてくる。
「リュウさん、一曲、私からもお願いしますよ。以前にもここで弾いてくれたでしょう? 私も聴きたいんです」
マスターに催促され、リュウが困ったような表情を浮かべた。
「でもマスター、最近は全然さわっていなかったんだ。とちるかもしれないぜ」
「かまわないですよ」
「そうとも、音楽は心なんだから」
わっと拍手までされ、引っ込みがつかなくなったリュウが、しぶしぶ席から立ち上がる。
「本当に、失敗するぞ」
ぼやきながらピアノの方へと歩いていき、椅子に腰を降ろす。
気持ちをととのえるように一度、眼を閉じる。それから鍵盤に指を置き、すっと指を動かし始める。
──なんて、美しい音。
唯音は耳を澄ませ、鍵盤に指をすべらせる姿をじっと見つめた。
彼の指先から魔法のように音がこぼれていく。その音はこれまで聴いたどんなピアノの音より、彼女の心をとらえて離さなかった。
やがて曲が終わると、ピアノバー、ビリーは盛大な拍手につつまれた。
「すごいじゃないか!」
「本当にしばらく弾いてなかったのかい? 信じられないな」
バンドの面々に称賛され、自分の指を眺めながら彼が照れたようにつぶやく。
「思ったより指が動いてくれて助かった」
「もう一曲、弾いてくれよ」
「おいおい、一曲だけ、って話だろう」
「そんなに弾けるのに野暮は言いっこなしさ。そうだ、唯ちゃん、歌ってくれないか」
「わたし?」
「ああ、ぜひ彼のピアノで、ブルーレディの誇る歌姫にね」
悠哉の申し出に、唯音は席から立ち上がった。躊躇しながらもピアノの方へ歩み寄り、彼のかたわらに立つ。
「まったく、我儘 な連中だな」
呆れたように、でもおかしそうに、彼の眼が笑っている。
「仕方ないな。さっきも言ったように、とちっても知らないぜ」
「その時には唯ちゃんがカバーしてくれるさ」
「それもそうだな。音を外したらフォローを頼むよ」
「わたしこそ」
くすっと笑いあうと、リュウが訊いてくる。
「リクエストは?」
「そうね……あの歌がいいわ。『遥かにあなたの名を呼んで』」
ブルーレディの即興オーディションでも歌った、唯音の好きな古い恋歌だ。
了解、と答え、彼が鍵盤に視線を落とす。
流れ出す前奏。心の中で旋律を追いながら、唯音は息をととのえ、唇を動かした。
あなたはわたしにとって
ただひとりのひと
離れていても遥かに名を呼ぶ
想いが届かないのならせめて
この髪がのびて
あなたのもとへと
届けばいいのに
美しい歌声とピアノの音が、店内に流れていく。
「仕事で、あちこち回っていたんだ」
「音楽関係?」
「いや、貿易会社の使い走りみたいなものさ」
あまり話したがらない様子に、それ以上訊くのは
唯音はふと彼の横顔に、かすかに翳りを見た気がした。理由はわからないけれど、彼は真実を言っていない、そう感じた。
かかっていたレコードが途切れ、ぎこちない雰囲気を変えるようにマスターが明るく声をかけてくる。
「リュウさん、一曲、私からもお願いしますよ。以前にもここで弾いてくれたでしょう? 私も聴きたいんです」
マスターに催促され、リュウが困ったような表情を浮かべた。
「でもマスター、最近は全然さわっていなかったんだ。とちるかもしれないぜ」
「かまわないですよ」
「そうとも、音楽は心なんだから」
わっと拍手までされ、引っ込みがつかなくなったリュウが、しぶしぶ席から立ち上がる。
「本当に、失敗するぞ」
ぼやきながらピアノの方へと歩いていき、椅子に腰を降ろす。
気持ちをととのえるように一度、眼を閉じる。それから鍵盤に指を置き、すっと指を動かし始める。
──なんて、美しい音。
唯音は耳を澄ませ、鍵盤に指をすべらせる姿をじっと見つめた。
彼の指先から魔法のように音がこぼれていく。その音はこれまで聴いたどんなピアノの音より、彼女の心をとらえて離さなかった。
やがて曲が終わると、ピアノバー、ビリーは盛大な拍手につつまれた。
「すごいじゃないか!」
「本当にしばらく弾いてなかったのかい? 信じられないな」
バンドの面々に称賛され、自分の指を眺めながら彼が照れたようにつぶやく。
「思ったより指が動いてくれて助かった」
「もう一曲、弾いてくれよ」
「おいおい、一曲だけ、って話だろう」
「そんなに弾けるのに野暮は言いっこなしさ。そうだ、唯ちゃん、歌ってくれないか」
「わたし?」
「ああ、ぜひ彼のピアノで、ブルーレディの誇る歌姫にね」
悠哉の申し出に、唯音は席から立ち上がった。躊躇しながらもピアノの方へ歩み寄り、彼のかたわらに立つ。
「まったく、
呆れたように、でもおかしそうに、彼の眼が笑っている。
「仕方ないな。さっきも言ったように、とちっても知らないぜ」
「その時には唯ちゃんがカバーしてくれるさ」
「それもそうだな。音を外したらフォローを頼むよ」
「わたしこそ」
くすっと笑いあうと、リュウが訊いてくる。
「リクエストは?」
「そうね……あの歌がいいわ。『遥かにあなたの名を呼んで』」
ブルーレディの即興オーディションでも歌った、唯音の好きな古い恋歌だ。
了解、と答え、彼が鍵盤に視線を落とす。
流れ出す前奏。心の中で旋律を追いながら、唯音は息をととのえ、唇を動かした。
あなたはわたしにとって
ただひとりのひと
離れていても遥かに名を呼ぶ
想いが届かないのならせめて
この髪がのびて
あなたのもとへと
届けばいいのに
美しい歌声とピアノの音が、店内に流れていく。