第16話 後ろめたさ

文字数 795文字

「お、リュウじゃないか、久しぶり!」
 他のメンバーたちも戸口にやって来て、口々に声をかけていく。彼は悠哉だけでなく、バンドの皆と顔見知りらしかった。
「どうしていたんだい? ここのところずっと姿を見なかったけど」
「仕事で上海を離れていたのさ。でも、これからはまたこちらだ。よろしく」
「こちらこそ」
「また一緒に演奏しようぜ。楽しみだな」
 そんな陽気なやり取りの後、彼は悠哉の方を向いた。
「実は今夜、このお嬢さんをお借りしたいと思ってね」
「唯ちゃんを?」
「フランス租界の『ミッシェル』へ行こうと思うんだ。もちろん帰りは責任を持って家まで送り届ける」
「別に、唯ちゃんがいいなら、僕に異存はないけど」
「彼女が、話しておかないと君が心配するって言うんでね」
「まいったな」
 頭の後ろに手をやり、悠哉が苦笑いする。
「そういうことなら、リュウ、唯ちゃんを頼むよ。唯ちゃん、楽しんでおいで」
「ありがとう、悠哉さん」
「じゃ」
 メンバーたちに軽く片手を上げ、彼は唯音と肩を並べて歩いていく。
「──リュウ!」
 唐突に、彼を呼ぶ弾んだ声がした。振り返ると店の踊り子のリーリだった。唯音と同じ十八歳で、目鼻立ちのはっきりした美しい娘だ。
「ずいぶん長い間、姿を見せなかったわね。いつ上海に戻ってきたの?」
 眼を輝かせながら駆け寄って来るリーリに、つい先日ね、と彼は素っ気なく答えた。
「戻ってきたなら、知らせてくれればよかったのに」
 ()ねたような語調でリーリが告げる。二人は親密な間柄のように思えた。
 が、リーリの熱心さとは裏腹に、彼はあっさり背を向けた。
「悪いが、急ぐんでね」
 にべもなく言って、唯音の手を引く。
「リュウってば!」
 その背中に向かってリーリが叫び、次いで唯音にきっと視線を投げる。
 この()は彼のことを……。
 クラブに行こうと自分から誘ったわけではない。それでもどことなく後ろめたさを覚えて唯音は眼を伏せた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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