第44話 追われる者
文字数 995文字
陽が落ちればネオンが灯り、共同租界のメインストリートである南京路はいっそう華やかさを増す。
今日もブルーレディは多彩な国籍の客たちで賑わっていた。紫煙の漂う中、さまざまな言葉が声高に飛び交っている。
ステージの合間の小休止、唯音は隅のテーブルでバンドの仲間たちと一緒に軽いカクテルで喉を潤していた。
アンティークな柱時計に視線をやり、次のステージの前にメイクを直しておこうと立ち上がる。
化粧室は店の奥で、ホールを出て通路を歩いて行かなければならない。
真鍮のドアを開けると先客がいた。リーリだった。
リーリは唯音に一瞥 を投げると、何事もなかったように再び鏡に向かい、口紅を塗っていく。
唯音も鏡の前で髪をとかし、ルージュをひき直す。
無言で二人の女がバッグに口紅をしまい、化粧室を出た時だった。突然、ホールの方から男が走ってきて、その姿を見たリーリが驚愕の声を上げた。
「氾 !?」
ハンと呼ばれた男はびくっと立ち止まり、リーリに気づくと、ほっとしたような表情を浮かべた。
「リーリ!」
ただならぬ様子に、リーリは両手で彼の腕をつかみ、早口にたずねかける。
「どうしたの? 追われてるの?」
そうだ、と男は背後を気にしながら返答する。
「何に追われているの。工部局警察? それとも日本の憲兵隊?」
「憲兵隊だ。もう店まで追ってきている」
唯音は息をつめて二人のやりとりを聞いていた。いきさつを知らない彼女にも切羽詰まった状況なのがわかった。
「早く! こっちから出られるわ」
部外者である唯音には頓着せずに、裏口へとリーリは男の手を引いて走り出した。
二人の姿が角を曲がり、足音が遠ざかっていく。裏口の方から鉄のドアがぎっ、と開けられる音が聞こえてくる。
その間、唯音はじっと通路に立ち尽くしていた。下手に動いてはいけない気がした。
やがて男を裏口から逃がしたのだろう、リーリが息を弾ませながら戻ってきた。
「何だ、まだこんなところにいたの」
困惑する唯音に胸もとをつかむようにして、ずいっと詰め寄ってくる。
「このこと、黙っててくれるわね?」
「え、ええ」
鋭い光をたたえた眼に気圧されながら、唯音はうなずく。
「いいこと? 憲兵隊に売ったりしたら承知しないわよ!」
「わたし、密告なんてしないわ」
ぱん、とリーリの手を払って唯音はきっぱりと答えた。自分自身の誇りにかけて、卑怯な真似をするつもりはなかった。
今日もブルーレディは多彩な国籍の客たちで賑わっていた。紫煙の漂う中、さまざまな言葉が声高に飛び交っている。
ステージの合間の小休止、唯音は隅のテーブルでバンドの仲間たちと一緒に軽いカクテルで喉を潤していた。
アンティークな柱時計に視線をやり、次のステージの前にメイクを直しておこうと立ち上がる。
化粧室は店の奥で、ホールを出て通路を歩いて行かなければならない。
真鍮のドアを開けると先客がいた。リーリだった。
リーリは唯音に
唯音も鏡の前で髪をとかし、ルージュをひき直す。
無言で二人の女がバッグに口紅をしまい、化粧室を出た時だった。突然、ホールの方から男が走ってきて、その姿を見たリーリが驚愕の声を上げた。
「
ハンと呼ばれた男はびくっと立ち止まり、リーリに気づくと、ほっとしたような表情を浮かべた。
「リーリ!」
ただならぬ様子に、リーリは両手で彼の腕をつかみ、早口にたずねかける。
「どうしたの? 追われてるの?」
そうだ、と男は背後を気にしながら返答する。
「何に追われているの。工部局警察? それとも日本の憲兵隊?」
「憲兵隊だ。もう店まで追ってきている」
唯音は息をつめて二人のやりとりを聞いていた。いきさつを知らない彼女にも切羽詰まった状況なのがわかった。
「早く! こっちから出られるわ」
部外者である唯音には頓着せずに、裏口へとリーリは男の手を引いて走り出した。
二人の姿が角を曲がり、足音が遠ざかっていく。裏口の方から鉄のドアがぎっ、と開けられる音が聞こえてくる。
その間、唯音はじっと通路に立ち尽くしていた。下手に動いてはいけない気がした。
やがて男を裏口から逃がしたのだろう、リーリが息を弾ませながら戻ってきた。
「何だ、まだこんなところにいたの」
困惑する唯音に胸もとをつかむようにして、ずいっと詰め寄ってくる。
「このこと、黙っててくれるわね?」
「え、ええ」
鋭い光をたたえた眼に気圧されながら、唯音はうなずく。
「いいこと? 憲兵隊に売ったりしたら承知しないわよ!」
「わたし、密告なんてしないわ」
ぱん、とリーリの手を払って唯音はきっぱりと答えた。自分自身の誇りにかけて、卑怯な真似をするつもりはなかった。