第43話 誓い

文字数 579文字

 病院を出ると、二人は共同租界(そかい)に向かって歩き出した。途中で車を拾ってもよかった。
「唯ちゃん、昨日は……」
 街路樹の植えられた通りをゆっくりと足を運びながら、悠哉が口を開く。
「謝って済むとは思ってないけど、謝りたいんだ。──すまなかった」
 苦渋のにじんだ口調に唯音は立ち止まり、うっすら微笑みかけた。
「もう、何も言わないで」
「許してもらえると、思っていいのか?」
「ひとつだけ……二度とあんなことをしないと約束して」
「誓うよ。金輪際、唯ちゃんに不埒な真似はしない」
 その言葉を聞くと、唯音は柔らかくうなずいた。
 安堵にも似た思いがじんわりと心に広がっていく。本当はひそかに心配していたのだ。もしこのまま悠哉と気まずくなってしまったら、と。
 これで今までと同じように一緒にいられる。仲間たちと共に、笑いあったり、お茶を飲んだり、音楽をやったりできる。
 愛とは呼べなくても、彼は唯音にとって大切な人なのだ。
 微笑む唯音に、悠哉もほっとして笑みを返した。彼もまた、唯音と気まずくなってしまうことを、ずっと懸念していた。
 たとえ他の相手を思慕していても、彼にとって唯音はやはり、かけがえのない娘なのだ。
 二人は肩を並べて街路樹の葉陰の下を歩き、通りの角で車を拾って乗り込んだ。
「南京路のブルーレディへ」
 悠哉が行く先を告げると、運転手は愛想よく返事をして車を発進させた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み