第92話 帰国の便

文字数 545文字

 その夏の市街戦がおさまっても動乱は続いた。
 支配する者と抵抗する者との、泥沼のような戦い。
 一九四五年。日本の敗北をもって戦争は終結した。

 川面(かわも)から吹きよせる微風の中、唯音は外灘(バンド)にたたずんでいた。
 目の前を帆をいっぱいに張ったジャンクがすべっていく。遠く長江と海に続いている港の風景は、自分が初めてここに来た頃と変わらない。
「唯ちゃん」
 不意に声をかけられ、はじけたように振り向いた唯音は、そこに立つ姿を見て淡く笑った。
「ああ、悠哉さん」
 唯音の横に並んで立つと悠哉はさらりと告げた。
「帰国の便が決まったよ。来週の水曜日、午後三時の船だ」
 唯音は眼を見開き、悠哉を見た。もの言いたげな彼女にはかまわずに、彼は念を押した。
「来週の帰国の船に乗る。いいね?」
「……」
 黙ったままの唯音に軽くため息をつき、悠哉は続ける。
「わかっているだろう? 日本は負けたんだ。これ以上、日本人である僕らが中国にいるわけにはいかない」
 唯音は彼から視線を外して、港通りのビルディングに眼をやった。
 彼女とて、今までのようにこの街にはいられないことくらい、充分に承知している。
 先日まで日の丸が掲げられていた建物には、今は中国の旗が誇らしげにひるがえっている。上海の市民がやっと手にした勝利と自由の象徴のように。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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