第46話 景気のいい音楽

文字数 600文字

 背中を刺していた視線がふっと消えた。振り向くと、リーリがテーブルについて客にビールをついでいた。
 あの人、リーリと知り合いみたいだったけど……。
 テロリスト──抗日活動家だと、憲兵隊の士官は言っていた。
 反射的にリュウの姿が脳裏に浮かんだ。昨日、子供をあやすように、ふんわりと抱きしめてくれた彼が。
 リュウは本当に抗日活動をしているのだろうか。だとしたら、あんな風に追われたりするのだろうか……。
 胸をしめつける思いに眼を伏せた時、ふと視線を感じて唯音は顔を上げた。リーリではない。悠哉だった。
 瞳が合っても悠哉は何も言わなかった。でも、その意図が痛いほどわかった気がして、唯音はそっと唇を嚙んだ。
 悠哉はリュウのことを考えたのだ。唯音と同じように。
「すまないが、音楽を頼めるかね」
 支配人の巳月が困惑した表情で声をかけてくる。
「今しがたの一件で、店の雰囲気がすっかり沈みこんでしまった。景気のいい音楽が欲しいんだが」
「わかりました」
「任せてくださいよ。とびきり陽気なやつをやりましょう」
 口々に答え、バンドの面々はステージへと上がっていく。だが、口調とは裏腹に表情は冴えなかった。
「嫌な世の中だね」
 クラリネットを持ちながら、メンバーのひとりがぼそりとつぶやく。
「ああ、全く嫌な世の中だ」
「だからこそ気分を変えて、いい音楽をやらなくちゃ」
 悠哉が務めて明るく言い、サックスの吹き口に唇を当てた。 

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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