第63話 突きつけられた現実

文字数 735文字

「リーリ、お願いよ。わたしをここから出して!」
「あんたの気持ちはわかるけど、ダメよ」
 すがるように腕をつかむ唯音の手を、そっと外す。
「あたしたちも必死なのよ。放っておいたら仲間たちは処刑されてしまうわ。何としても取り戻さないと」
 それだけ言うと、唯音の瞳を見つめ、
「別にあんたに罪はないわ。でも、あたしの両親だって何も悪いことなんてしちゃいなかったわ」
「あなたの、両親?」
 怪訝そうに聞き返す唯音に冷たい声でリーリは続けた。
「五年前に上海で戦闘があったのを知ってる? 日本軍と、この国の軍隊が市街で戦ったのよ。大勢の人が戦闘に巻き込まれて死んだ。その中に、あたしの父さんと母さんもいたわ」
「……」
「あたしだけじゃない。あの人もそう」
「あの人?」
「リュウよ。彼もあたしと同じ、その時の戦闘で両親を殺されたのよ」
 息を呑む唯音に、リーリの氷のようなまなざしが向けられる。
「勝手に入り込んで、権力を振りかざして……あんたたち外国人にどんな権利があるっていうの? ここはあたしたちの国よ!」
 激しい言葉に唯音はうつむいた。ひとことも返せなかった。
 リーリは高ぶった気持ちを落ち着けるように髪をかき上げると、いくぶん穏やかな口調になって語りかけた。
「心配しなくていいわ。あんたのおじさんがこちらの要求を呑んでさえくれれば、無事に帰してあげる」
 慰めるように言ってテーブルに置いた皿を指差す。粗末な米の煮込み料理だった。
「食べといて。後で食器を取りに来るわ」
 ドアが閉められ、次いで外からかんぬきと鍵のかかる音。
 閉ざされたドアを見つめながら、唯音は再び硬い椅子に腰を降ろした。
 眼の前に突きつけられた、残酷な現実。何も知らなかった自分。
 途方に暮れるように彼女は両手で顔を覆った。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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