第5話 思案
文字数 1,453文字
楽器の置かれたフロアから正面に座る悠哉に視線を戻すと、ふふっ、と唯音は小さく笑みを浮かべた。
「どうしたんだい、ひとりで笑って」
「あのね、不思議だな、って思ったのよ。義兄 さん──悠哉さんとこんな異国で、こうして向かいあっているなんて。会った頃は考えてもみなかったわ」
カップを手に悠哉が懐かしげに眼を細める。
最初に出会ったのは、唯音の姉と自分の兄の結婚式の時。
花嫁の美しさもさることながら、まだ髪を三つ編みにしていた唯音の愛らしさは、今でもくっきりと記憶に刻み込まれている。
「あの頃、唯ちゃんはまだ女学生だったな。とても可愛かった」
「もうっ、昔の話を持ち出さないで」
きまり悪げな表情になって唯音が明後日 の方を向く。
「それにしても、家を出てこっちに住むなんて、よくご両親が許してくれたね」
「ああ、そのこと?」
コーヒーをもうひと口飲むと、唯音はさらりと答えた。
「本当はね、勘当も同然なの。わたし、女学校の卒業式を済ませるとすぐ、ひとりで荷物をまとめて船に乗ったのよ」
「……」
言葉も出ない悠哉に肩をすくめて続ける。
「実はね、ばれちゃったのよ」
「ばれたって、何が?」
「わたしが内緒でクラブで歌ってたことが」
歌が大好きな彼女は、反対する両親の眼を盗んで、こっそり勉強を続けてきたのだ。
「父ってば、ひどいのよ。カンカンになって、無理矢理わたしを結婚させようとするんですもの」
「そいつは横暴だな。しかし、勘当同然ってのはまずいんじゃないかい」
当惑する悠哉に向かって、本人の方が気楽に笑ってみせる。
「そんな深刻な顔しないで。大丈夫よ。こちらにはおじさまもいらっしゃるでしょ」
「貴堂 大佐だね」
「ええ、それで両親も少しは安心しているんじゃないかしら」
話に登場した人物は唯音の父の弟だ。海軍武官である彼は本国から派遣され、二年前から上海に駐在している。
「明日にでもご挨拶に行こうと思うの」
「驚くぞ、そんな恰好を見たら」
「でしょうね」
例の、真紅のチャイナドレス。顔を見合わせ、くすっと笑いあうと、悠哉は不意に真面目な口調で訊いた。
「ところで日本はどうだい? こっちに来てから一度も帰っていないけど」
唯音はテーブルに眼を伏せた。表情に翳 りが漂っている。
「わたしには、あまりむずかしいことはわからないけれど……日本はどんどん軍事色が強まっていく気がするわ」
かつては東洋の小国に過ぎなかった二人の祖国は、今や列強諸国と肩を並べる強大な軍事国家へと変貌を遂げていた。
そして自らはわずかな領土しか持たない軍事国家は、海を隔てた大陸へと野心の矛先を向けた。
背後に豊かな大地を控えた港湾都市・上海は、十二年前の軍事介入で、事実上、その一部を植民地化されたのだ。
この国の政府は奥地に逃れ、今も人民と共に抵抗を──独立活動を続けている。
唯音は天井を見上げると、ふっと息を吐き、わざと明るい声を出した。
「よしましょう、こんな話。ね、それより悠哉さん、今日はこれからどうするの?」
「夕方から仕事なんだ。せっかく唯ちゃんがやって来た日なのに、残念ながら休みが取れなくてね」
「わたしのことなら気にしないで。あ、そうだ、わたしも悠哉さんの出演しているお店に一緒に行っていい? 邪魔しないでおとなしくしてるから」
もちろんさ、と悠哉がうなずき、唯音も微笑み返す。
それから、まだほの温かいコーヒーのカップを両手で持ちながら、
「わたしも、この街で仕事を探さなくちゃね」
と、思案顔でつぶやいた。

「どうしたんだい、ひとりで笑って」
「あのね、不思議だな、って思ったのよ。
カップを手に悠哉が懐かしげに眼を細める。
最初に出会ったのは、唯音の姉と自分の兄の結婚式の時。
花嫁の美しさもさることながら、まだ髪を三つ編みにしていた唯音の愛らしさは、今でもくっきりと記憶に刻み込まれている。
「あの頃、唯ちゃんはまだ女学生だったな。とても可愛かった」
「もうっ、昔の話を持ち出さないで」
きまり悪げな表情になって唯音が
「それにしても、家を出てこっちに住むなんて、よくご両親が許してくれたね」
「ああ、そのこと?」
コーヒーをもうひと口飲むと、唯音はさらりと答えた。
「本当はね、勘当も同然なの。わたし、女学校の卒業式を済ませるとすぐ、ひとりで荷物をまとめて船に乗ったのよ」
「……」
言葉も出ない悠哉に肩をすくめて続ける。
「実はね、ばれちゃったのよ」
「ばれたって、何が?」
「わたしが内緒でクラブで歌ってたことが」
歌が大好きな彼女は、反対する両親の眼を盗んで、こっそり勉強を続けてきたのだ。
「父ってば、ひどいのよ。カンカンになって、無理矢理わたしを結婚させようとするんですもの」
「そいつは横暴だな。しかし、勘当同然ってのはまずいんじゃないかい」
当惑する悠哉に向かって、本人の方が気楽に笑ってみせる。
「そんな深刻な顔しないで。大丈夫よ。こちらにはおじさまもいらっしゃるでしょ」
「
「ええ、それで両親も少しは安心しているんじゃないかしら」
話に登場した人物は唯音の父の弟だ。海軍武官である彼は本国から派遣され、二年前から上海に駐在している。
「明日にでもご挨拶に行こうと思うの」
「驚くぞ、そんな恰好を見たら」
「でしょうね」
例の、真紅のチャイナドレス。顔を見合わせ、くすっと笑いあうと、悠哉は不意に真面目な口調で訊いた。
「ところで日本はどうだい? こっちに来てから一度も帰っていないけど」
唯音はテーブルに眼を伏せた。表情に
「わたしには、あまりむずかしいことはわからないけれど……日本はどんどん軍事色が強まっていく気がするわ」
かつては東洋の小国に過ぎなかった二人の祖国は、今や列強諸国と肩を並べる強大な軍事国家へと変貌を遂げていた。
そして自らはわずかな領土しか持たない軍事国家は、海を隔てた大陸へと野心の矛先を向けた。
背後に豊かな大地を控えた港湾都市・上海は、十二年前の軍事介入で、事実上、その一部を植民地化されたのだ。
この国の政府は奥地に逃れ、今も人民と共に抵抗を──独立活動を続けている。
唯音は天井を見上げると、ふっと息を吐き、わざと明るい声を出した。
「よしましょう、こんな話。ね、それより悠哉さん、今日はこれからどうするの?」
「夕方から仕事なんだ。せっかく唯ちゃんがやって来た日なのに、残念ながら休みが取れなくてね」
「わたしのことなら気にしないで。あ、そうだ、わたしも悠哉さんの出演しているお店に一緒に行っていい? 邪魔しないでおとなしくしてるから」
もちろんさ、と悠哉がうなずき、唯音も微笑み返す。
それから、まだほの温かいコーヒーのカップを両手で持ちながら、
「わたしも、この街で仕事を探さなくちゃね」
と、思案顔でつぶやいた。
