第56話 嗚咽

文字数 631文字

 ──あなたなんか利用されてるだけよ!
 いつか聞いたリーリの台詞が鮮やかに甦り、鋭く胸に突き刺さった。
「は……」
 すべてのからくりがわかって、片手で顔をおおい、唯音は笑い出した。
「唯音?」
 怪訝そうなリュウにはおかないなしに、唯音は乾いた声で笑い続けた。
 リュウが自分に近づいてきたのは……ご丁寧に恋人のふりまでしたのは、そんな目的があったからなのだ。
 何も知らずに騙されていた小娘は、さぞ愚かで滑稽だっただろう。
 甲高い声でひとしきり笑った後、唯音はきっと彼を見据えた。
「残念だったわね、わたしなんかを誘拐しても無駄よ。抗日分子の釈放なんて、おじさまが承知するはずがないわ」
「──するさ。君がいる」
 血が滲むほど唇を噛んで、唯音は彼に向って枕もとにあった水差しを投げつけた。ガラス製のそれは彼の頬をかすめ、背後の壁に当たって粉々に砕け散った。
「出ていって、わたしの前から消えて!」
 生まれて初めて感じた、相手を殺してやりたいほどの憎悪。
 こんなに誰かを憎めるなんて自分でも不思議なほどだった。
 ほんの数時間前までは心から愛しく想っていた相手なのに。
 彼女の望み通り、彼は静かにドアを開けて出ていった。
 外から鍵とかんぬきのかかる音がして、その冷たい響きを聞きながら、唯音は硬いベッドに突っ伏した。
 幸せだった日々が音を立てて崩れていく。あの笑顔も、ぬくもりも、すべて嘘だったのだ。
 唇から嗚咽がもれ、シーツをきつくつかむ。
 裏切られた哀しみが全身を貫いていた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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