第37話 噂
文字数 931文字
おじの入院した病院から、同じ虹口地区の唯音のアパートまで来ると、
「唯ちゃん……」
ドアの前で意味ありげに悠哉は彼女の名を呼んだ。
「少し話があるんだが……」
鍵を回しながら、唯音は小首をかしげた。
「どんなお話?」
すぐには返答せず、言いづらそうに彼はこちらを見つめている。
「あまりいい話ではなさそうね。そうだわ、よかったらお茶でも飲んでひと休みしていって」
うかない顔の悠哉に唯音は申し出た。おじが狙撃された知らせを受けてから、ずっと気を張りつめていて悠哉も疲れているはずだ。
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」
こんな時は、ひとりより二人で飲むお茶の方が疲れを癒してくれるだろう。
唯音はドアを明け、小綺麗な部屋の中へと、どうぞ、と招き入れる。
「お邪魔するよ」
「テーブルについて座ってらして。今、お茶を入れるわ」
窓を細く開けて風を入れ、唯音はコンロにやかんをかけた。
香り高い紅茶を二人分入れて彼の前にカップを置き、自分も向かいの椅子に腰を降ろす。
手を伸ばしてラジオのスイッチを入れると、シャンソンが部屋に流れだした。紅茶をひと口飲んで、唯音は彼に視線を当てた。
「で、お話って?」
「実は……」
口ごもる悠哉に、唯音はうながすように、なあに? とたずねかける。
ひと呼吸置いて、決心したように悠哉は唇を動かした。
「唯ちゃん、彼には深入りしない方がいい」
「え」
思いがけない台詞に、唯音は眼をしばたたかせた。
「それは、どういう意味? どうして悠哉さんがそんなこと言うの?」
「噂があるんだ。彼が……リュウが、抗日活動をしているという……」
「嘘よ!」
とっさに唯音は激しく打ち消した。根拠があるわけではない。ただの感情からだった。
「僕だって彼を信じたいさ。でも……」
「ただの噂でしょう? 悠哉さんが憶測だけで人を悪く言うなんて……」
「僕はね、唯ちゃんが心配なんだ。上海はいつ騒乱が起こってもおかしくないような状況で、彼は中国人で、僕らは日本人なんだ」
「そんなこと、関係ないわ!」
椅子から立ち上がり、唯音は叫んだ。つられて悠哉も立ち上がる。
「それほど彼を愛しているわけかい?」
自分に向けられた瞳に唯音は息を呑んだ。傷ついた獣のように熱くて、哀しい眼だった。
「唯ちゃん……」
ドアの前で意味ありげに悠哉は彼女の名を呼んだ。
「少し話があるんだが……」
鍵を回しながら、唯音は小首をかしげた。
「どんなお話?」
すぐには返答せず、言いづらそうに彼はこちらを見つめている。
「あまりいい話ではなさそうね。そうだわ、よかったらお茶でも飲んでひと休みしていって」
うかない顔の悠哉に唯音は申し出た。おじが狙撃された知らせを受けてから、ずっと気を張りつめていて悠哉も疲れているはずだ。
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」
こんな時は、ひとりより二人で飲むお茶の方が疲れを癒してくれるだろう。
唯音はドアを明け、小綺麗な部屋の中へと、どうぞ、と招き入れる。
「お邪魔するよ」
「テーブルについて座ってらして。今、お茶を入れるわ」
窓を細く開けて風を入れ、唯音はコンロにやかんをかけた。
香り高い紅茶を二人分入れて彼の前にカップを置き、自分も向かいの椅子に腰を降ろす。
手を伸ばしてラジオのスイッチを入れると、シャンソンが部屋に流れだした。紅茶をひと口飲んで、唯音は彼に視線を当てた。
「で、お話って?」
「実は……」
口ごもる悠哉に、唯音はうながすように、なあに? とたずねかける。
ひと呼吸置いて、決心したように悠哉は唇を動かした。
「唯ちゃん、彼には深入りしない方がいい」
「え」
思いがけない台詞に、唯音は眼をしばたたかせた。
「それは、どういう意味? どうして悠哉さんがそんなこと言うの?」
「噂があるんだ。彼が……リュウが、抗日活動をしているという……」
「嘘よ!」
とっさに唯音は激しく打ち消した。根拠があるわけではない。ただの感情からだった。
「僕だって彼を信じたいさ。でも……」
「ただの噂でしょう? 悠哉さんが憶測だけで人を悪く言うなんて……」
「僕はね、唯ちゃんが心配なんだ。上海はいつ騒乱が起こってもおかしくないような状況で、彼は中国人で、僕らは日本人なんだ」
「そんなこと、関係ないわ!」
椅子から立ち上がり、唯音は叫んだ。つられて悠哉も立ち上がる。
「それほど彼を愛しているわけかい?」
自分に向けられた瞳に唯音は息を呑んだ。傷ついた獣のように熱くて、哀しい眼だった。