第39話 想いの先

文字数 498文字

 唯音から両手を離し、覆いかぶさっていた体をも離す。顔をそらしながら、ぽつりと告げる。
「……悪かった」
 乱れた胸もとをかき合わせて唯音は上半身を起こした。
「──帰って」
 彼女の言葉に彼は黙ってうなずいた。立ち上がり、背中を向けてドアの方へと歩き出す。
「悠哉さん!」
 強引につかまれた手首の痛みを感じながらも、何かを言わなければいけない気がして、唯音はノブに手をかける悠哉を呼び止めた。
「……ごめんなさい。でも、わたし、悠哉さんが好きよ。次に会える時は、今まで通り会えるわよね?」
 振り向かずに、ありがとう、と悠哉がかすれた声で返答する。それから静かにドアを開け、部屋の外へと出ていく。
 その後ろ姿を遮断してドアが閉じられると、唯音は乱れた髪をかきやり、鏡台の前に座り込んだ。
 鏡の前で服を直し、髪にブラシを当てる。
 だが、すぐに手を止め、唯音はぼんやりと鏡に映る自分を眺めた。
 ──ごめんなさい、悠哉さん。
 手にしていたブラシを鏡台に置き、両手で顔をおおう。
 彼を追いつめ、あんな真似をさせたのは、他ならぬ自分なのだ。
 大好きな、優しい人。でも愛ではなかった。自分の想いは別の相手へと向いている。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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