第90話 流された血

文字数 623文字

「唯ちゃん!」
 どこかで銃声がして、その音にまじって唯音を呼ぶ声に二人は同時に振り返った。
「悠哉さん!」
 駆け寄ってくる姿に唯音は安堵の表情を浮かべた。
「よかった、無事だったのね」
「遅くなってすまない。同じアパートの親子を避難させていたんだ。母親が病気でね。唯ちゃんこそ無事でよかった」
 かたわらまで来て唯音の腕に眼をとめ、悠哉は眉をひそめた。
「ケガしたのか」
「大丈夫よ。大したことないわ。彼が助けてくれたの」
 悠哉は唯音からゆっくりと視線を移し、皮肉げに口を開いた。
「……あんたか」
 刺のあるもの言いに首をかしげた直後、唯音は息を呑んだ。あろうことか、悠哉はリュウに銃を向けたのだ。
「悠哉さん、何を── !?
 狼狽する唯音には頓着せず、悠哉はリュウを見すえた。
「貴堂大佐は立派な人だった」
 ──おじさま……。
 悠哉の唇からこぼれた名が胸をうずかせ、唯音は指を握った。
「軍人としても、個人としても、尊敬していた。血はつながっていなかったが、僕にもとてもよくしてくれた。あんたは、その(かたき)というわけだ。
 話している間にもワルサーの銃口はまっすぐリュウに向けられている。
 悠哉は本気だ。引き金に指をかけ、本当に撃つつもりだ。
「やめて、悠哉さん!」
 必死に叫びながら、唯音は二人の間に立ちはだかった。
 どいてくれ、と悠哉が顎をしゃくる。
「だめよ! これ以上、血を流してどうなるの。わたしたちまで殺しあうの!?」
 もう、流された血は充分すぎるというのに。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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