第93話 求婚

文字数 642文字

「唯ちゃん、日本に帰ったら……」
「え?」
 ぼんやりと風になびく旗を眺めていた唯音は、悠哉の声に彼の方を向いた。
 小首をかしげ、自分を見つめる唯音に、思い切ったように告げる。
「結婚してくれないか」
「──」
 また微風が吹いて、さらっと髪を揺らす。言葉を失う唯音に、悠哉は静かに続ける。
「こんな混沌とした時代だ。日本に帰ってもどうなるかわからない。でも、少しでも唯ちゃんを幸せにしたいと思ってる」
「悠哉さん……」
「今すぐでなくていい。返事をきかせてほしい」
 まっすぐな想いから逃れるように唯音は眼を伏せた。
「でも、わたしは……」
「彼か?」
 かすかな苛立ちに悠哉の眼が細められる。
「そうやっていつまで待つつもりだ? 生きているのなら、なぜこの街に、君の前に姿を現さない?」
 唯音には返す言葉がなかった。悠哉に言われるまでもない。いくつもの眠れない夜、その不安は彼女を苦しめてきたのだから。
 生きているのなら、そしてまだ自分を想ってくれているのなら、なぜ……と。
「結婚のことは今すぐでなくていい。でも、唯ちゃんひとりをこの街に残していくわけにはいかない。日本への引き揚げだけは一緒に連れていく。そのつもりでいてくれ」
 両手を胸にあてて唯音は悠哉を見つめた。
 水面に漂う葦のように心が揺れた。
 もうずっと長い間、自分を想ってくれている優しい人。
 彼と共に暮らせば、ささやかではあるけれど幸福な日々が送れるに違いない。
 なのに。今の唯音にはイエスと答えられなかった。ただ黙っているしかできなかった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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