第41話 不安

文字数 881文字

 唯音はしがみついていた手を離し、小さく息をついた。
「驚かせてごめんなさい。実は、おじが狙撃されて大ケガをしたの。それでわたし、気が動転してしまって……」
「おじさんが?」
 眼を細めて訊き返す彼に、黙って首是する。
「ケガの具合は? もう病院には行ってきたのかい」
「もちろん駆けつけたわ。命に別状はないし、意識もあったけど、でも、ひどいケガで……」
 思い出しただけで胸がふさがれそうな気がする。
「そんなことがあったのか」
 真顔になって、彼は両手で彼女の肩をつつみこむ。
「大丈夫、きっとすぐに良くなるさ」
 暖かな言葉が心に染み渡り、唯音は眼をつむって彼の胸に顔を埋めた。
「どころで、あれはどうした?」
「え?」
 閉じていた眼を開け、見上げると、彼はテーブルの下を指差した。
「あのカップさ。割れて、床に転がっているじゃないか」
 どきっと心臓の音が跳ね上がったが、唯音は何気ない風を装って説明した。
「あれはね、片づけようとして、わたし、うっかり落としてしまったの」
「そそっかしいな」
 少し呆れたように彼が笑い、本当ね、と一緒になって笑む。
 テーブルには、もうひとつのカップがそのままになっている。鋭いリュウのことだ。何かを感じ取っただろう。が、彼はそれ以上追及しようとはしなかった。
 唯音にしてもとても悠哉の件は話せなかった。彼の行為も、その言葉も。
 ──噂があるんだ。彼が抗日活動をしているという……。
 ──あなたなんか利用されているだけよ!
 いいえ、違うわ!
 脳裏にこだまする悠哉やリーリの台詞を、唯音は強く打ち消した。
 そんなはずが、ない。
 もしも彼が本当に抗日活動をしているとしても、自分が利用されているなどとはあり得ない。
 自分はちっぽけな娘で、駈け出しの歌手に過ぎない。財産や権力や情報といった、活動家たちにとって有益なものは何ひとつ持っていないのだ。
 再び彼の胸に顔を寄せながら、唯音は自分に言い聞かせた。
 リーリの言ったことは、外れてる。だって、わたしには何の利用価値もないのだもの。
 なのに。彼を信じつつも、唯音は胸に漠然とした不安が巣くうのを感じていた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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