第80話 閉ざされた場所

文字数 655文字

 ありったけの食糧と身のまわりの品を鞄に詰め終えると、唯音はふう、と息をついて窓の外に眼をやった。
 あとは悠哉を待つだけだった。

 避難民でごった返す通りを悠哉は母親を背負い、美夜をかばいながら歩いていた。
 額を汗が流れ落ちる。やせ細った母親の体は軽いとはいっても、人混みの中で幼い美夜をかばいながら進むのは容易ではなかった。
 もうすぐだ、と悠哉は自分を励ました。角を曲がった向こうが目指す病院だ。
 だが、門の前まで来て悠哉は愕然とした。何者をも拒絶するするように、病院の門はかたく閉ざされていた。
「開けてくれ! 病人なんだ」
 中に向かって叫びながら門を叩く。しかし応答はなかった。
 外の世界の騒乱とは裏腹に、高い塀と頑丈な門に守られた赤レンガ造りの建物はひっそりとしている。
 医者や患者たちは戦闘を恐れて中で息をひそめているのか、それともどこかに避難してしまったのか、悠哉には判断がつきかねた。
 背中で母親が、もういいんです、と消え入りそうな声で告げる。
「わたしは置いていってください。美夜だけを連れていって……」
 何を言うんです、と悠哉が叱りつける。
「美夜ちゃんのためにも、がんばらなくては。確かこの先に、もう一軒病院があったはずだ」
「でも……」
「さあ、行きますよ」
 母親を背負ったまま、再び歩き出す。幼い美夜が悠哉のベルトの端をつかんで、ちょこちょことついていく。
 ──唯ちゃん。
 アパートで自分を待っているであろう唯音を思って、悠哉は唇を噛んだ。
 この先の病院とて開いているかどうか、希望は持てなかった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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