第99話 写真

文字数 747文字

  半年近く過ごした延安(イエンアン)から上海に戻ってきた日、リュウはフランス租界に隣接する地区の家に足を向けた。その西洋風の小さな建物は、かつて父の妹──おばであるメイインと暮らした家だ。
 鍵を開けて中に入る。家の中はきれいに片づけられていて、椅子やテーブルなどの家具には白い布がかけられている。
 リュウはリビングのマントルピースの前に立ち、その上に置いてあった写真立てを手に取った。真ん中に十四歳の自分、右側にメイイン、左側にはメイインの恋人であったレンが写っている。
 はたから見れば幸福そうな家族の写真に見えるだろう。
 その一枚の写真を眺めていると、脳裏に映画のフィルムのように過去が鮮やかに(よみがえ)ってきた。
 そこかしこにメイインの思い出が息づく家で、リュウは遠い日々に思いを馳せた。

 一九三二年、二月。
 小雨の降る街は妙にひっそりと静まり返っていた。
 周囲に人の姿はない。ただ眼の前には戦闘で破壊された家々、その瓦礫(がれき)の山があるばかりだ。
 そこはかつて少年の──リュウの家があった場所だった。今では無残に破壊され、見る影もない。
 上海の冬の寒さが彼の体を芯から凍えさせていた。彼は唇を引き結び、ぎゅっと手を握りしめた。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
 それは日本軍と中国軍──いわゆる第一次上海事変の結果だった。虹口地区は危ない。蘇州河を越えて共同租界やフランス租界へ、持てる限りの荷物を持って人々が避難する中、
戦闘に巻きこまれ、少年と両親は離れ離れになってしまったのだ。
 寒さと疲労が彼の体力を奪っていた。彼はかつて家のあった場所に膝をかかえて座りこんだ。ここが自分の家だ。たとえ瓦礫の山になっていても。
 こうして待っていれば、父と母が迎えに来てくれるだろう。たとえそれが天堂(テイエンタン)からだとしても。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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