第30話 狙撃

文字数 663文字

 いつしか季節の主役が花々から若葉に変わる頃。
 その日、貴堂大佐は自宅から陸戦隊本部に向かっていた。
 本部と自宅は同じ虹口(ホンキュウ)地区にあり、車でならさほどの距離ではない。
 周囲を睥睨(へいげい)するかのような、いかめしい建物の前で大佐は部下の運転する車を降りた。軍服の襟元を正し、正面玄関へと歩き出そうとした、その時だった。
 背後にすっと黒塗りの車が止まった。車窓が開けられ、そこから大佐めがけて銃口が狙いを定める。
 次の瞬間、一発の銃声が響き渡った。
 あっという間の出来事だった。目的を果たした車はウインドウを閉め、猛然と走り去っていく。
「大佐!」
 運転してきた部下が駆け寄り、倒れた大佐のかたわらにかがみこんだ。異変に建物からも兵たちが飛び出してくる。
「……大丈夫だ。大したことはない」
 苦痛に顔を歪めつつ大佐は告げた。が、銃弾は右肩を貫き、軍服はみるみる血に染まっていく。
「傷にさわります。しゃべらないでください!」
 まだ若い部下が応急処置をしながら、なかば怒鳴るように言った。

 いつもと変わらぬ夕方。ブルーレディに出勤するため、アパートを出た唯音は大通りまで来て眼を見張った。
 辺りには武装した兵士たちが大勢立っていたのだ。
 兵士たちの表情は一様に険しく、周囲を威圧している。
 また、テロでもあったのだろうか。
 物々しい警戒に、唯音は落ち着かない気持ちで足早にその場を通り過ぎた。
 確かにこの街は不穏だけれど、軍が力で制圧しようとしても無駄ではないだろうか……。
 彼女には政治のことなどよくわからなかったが、そんな気がしてならなかった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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