第75話 避難場所

文字数 906文字

 そして夏のさかり。八月半ば。
 緊迫した状況の中、「ブルーレディ」で働いていた仲間たちは、虹口地区にある一軒家に息をひそめて集まっていた。バンド仲間で最も年長のピアニスト、葉村の家だ。
「昨日、市街戦があったそうじゃないか」
 応接間で、葉村の妻が入れてくれたコーヒーを手に、悠哉が苦々しく言う。
「ついに日本軍と中国軍が衝突したってわけだ」
「国民党政府は戦車や戦闘機をこの街に集結させているっていうぜ」
「わたしたち、どうなるのかしら……」
 唯音が不安げにつぶやき、重苦しい空気が部屋に漂う。
「この虹口地区は危ないな。五年前の日本の軍事介入の時も戦場になっているんだ」
 冷静に意見を述べたのは、ブルーレディでウエイターの長をやっていたアレクセイだ。
 アレクセイの言葉に仲間たちは顔を見合わせた。
 窓の外、朝から降り続ける雨に濡れる街並みを眺めていた葉村が、決心したように口を開く。
「彼の言う通り、ここは危険だ。どこかに避難した方がいい」
 こうしている間にも、激しい雨の中、危険を察知した人々が逃れていくさまが窓から見える。
「だけど、いったいどこへ行けばいいんだ」
 クラリネットの(シン)が困惑した声を出す。
「みんなで避難できる場所なんて、どこに……。あてもないのに下手に動いたら、かえって危険だ」
 仲間たちの間を沈黙が支配し、それを破ってひとすじの希望を口にしたのはアレクセイだった。
「避難場所ならブルーレディの地下室がいい」
 一斉に視線が彼に注がれる。
「ブルーレディだって?」
 訊き返す秦に、そうとも、とアレクセイは力強くうなずいた。
「あそこの地下室は頑丈に作られている。僕はウエイターの長をしていたから、鍵を預かっている。店は閉められたままだし、支配人の巳月さんは郊外に避難しているしね」
「ブルーレディの地下室……いい考えかもしれない。店は共同租界にあるしね」
 顎に手をあてて悠哉が考え深げにつぶやき、唯音も相槌を打つ。
「確かにあそこなら、みんなで避難できるわ」
 日本と中国との戦闘で、共同租界は最も安全と思われる場所だ。店を閉めた無人のブルーレディ。その地下室なら、仲間たちと今の困難な状況をやりすごせるかもしれない。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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