第77話 悪夢

文字数 620文字

「こんな混乱した状況だ。何が起こるかわからない。誰かが来ても不用意にドアを開けちゃいけない」
「わかったわ」
「じゃ、くれぐれも気をつけて。すぐに迎えに来るから」
「悠哉さんも気をつけて」
 ああ、と小さく笑って悠哉が(きびす)を返す。その姿が階段の下に消えてしまうと唯音は急いで部屋に入り、中から鍵をかけた。
 すでに他の住人たちはどこかに避難しているのだろう。建物のどこからも気配は感じられない。
 クローゼットにしまってあった旅行鞄を取り出し、缶詰やビスケット、ありったけの食料をかき集める。
 ビスケットの箱を手に、唯音は大きなため息をこぼした。
 まるで悪夢の中にいるようだ。                  
 戦争なんて新聞や映画の中の遠い出来事でしかなかったのに。
 窓際に立って港を眺めると、あたりを威圧するかのように軍艦が停泊しているのが見えた。武力衝突に備え、日本軍が急遽(きゅうきょ)派遣してきた艦隊だった。
 主砲を市街に向けた軍艦を見つめながら、おじさまが生きていらしたら何と言うかしら、とふと唯音は思った。
 いつだったか、自分が軍人になったのは戦うためでなく、守るためだと話してくれた。
 けれどこれは祖国を守るための戦いではない。どんなに言いつくろっても、強者が弱者を踏みつける侵略にすぎない。
 ──あんたたち外国人にどんな権利があるっていうの? ここはあたしたちの国よ!
 以前聞いたリーリの言葉を胸に繰り返しながら、唯音はじっと窓際にたたずんでいた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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