第13話 貴堂大佐
文字数 1,480文字
翌日の午後、悠哉がアパートのドアをノックして声をかけると、かちゃりと鍵が開き、唯音は笑顔で彼を迎えた。
「やあ」
「いらっしゃい、悠哉さん」
思ったより元気そうな様子に、悠哉はほっと胸をなでおろす。
事故のような出来事とはいえ、上海に着いた早々あんな目にあったのだ。唯音がすっかり怯 えてしまっても無理はない。
「中に入って。お茶でもいかが?」
「ありがとう。いただくよ」
招き入れられ、ダイニングのテーブルにつく。三階の角にある彼女の部屋は、開けた窓から黄浦江 の流れとそこを行き交う船が見える。
日当たりのよい、煉瓦造りの西洋風のアパートだ。ダイニングと寝室、小さなキッチンとバスルーム。マントルピースがあり、小花模様の壁紙が貼られ、通りに面した窓にはささやかなベランダがついている。
「どうぞ」
彼の前に紅茶を置き、向かいの席にもうひとつカップを置くと、唯音は自分も椅子に腰を下ろした。
ひと口飲んで美味しいよ、と悠哉が笑い、唯音も微笑み返す。
ふと壁に眼をやると、昨日南京路で買ったばかりの真紅のチャイナドレスがかけられている。
唯音は彼の視線に気づき、
「ボタンがちぎれてしまったので、手直しをしたの。これで着られるわ」
「唯ちゃん……」
「ゆうべは心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。あの人と悠哉さんが来てくれたおかげで、大事には至らなかったし。わたしが悪かったのよ。不注意だったわ」
カップを両手でつつみ、唇を噛む。懸命に気を張った姿がいじらしかった。
「今度から用心すればいいさ。唯ちゃんにみたいに若くて綺麗な娘は、特に気をつけないとね」
深刻な雰囲気を押しやるように、努めて明るい口調で話題を変える。
「今夜はブルーレディと正式に契約するんだろう? 出演料をうんと高く交渉してやらないと」
「唯哉さんってば」
紅茶のカップを口もとに運びながら、唯音が苦笑する。
「あ、でも、その前に陸戦隊本部に寄っていかないと。おじさんが首を長くして待ってるよ」
唯音のおじである貴堂 大佐の所属する海軍陸戦隊本部は虹口 地区、日本人街のメインストリートである北四川路にあった。
周囲を威圧するかのようにそびえる巨大な建物の前で、唯音はつと足を止めた。
「どうかしたかい、唯ちゃん」
春の柔らかな陽ざしを浴びながら、二、三歩先で悠哉が振り返る。
「あ、いえ、ただの民間人のわたしが陸戦隊本部に行くなんて、何だか気が引けて……」
「僕だってこんないかめしい所に行くのは気が進まないけど、大佐の希望でね。何しろ忙しくてほとんど自宅に帰っていないそうなんだ」
さあ、とうながされ、唯音は再び歩き出す。
「大丈夫さ。僕らは大佐の客人だぜ」
昨日のうちに連絡は入れてあった。取り次いでもらい、指示された部屋の扉をノックすると、中から、どうぞ、という低い声がした。
失礼します、と悠哉が言い、扉を開ける。ゆったりした調度の部屋だ。
白い軍服を着て窓際に立っていた人物がゆっくりとこちらを向いた。年の頃は四十代後半、落ち着いた雰囲気の男性だ。
その姿を見るや、今までの気おくれも忘れて、唯音は瞳を輝かせた。
「おじさま!」
ドアから窓際まで、行儀も放り出して小走りに室内を突っ切っていく。
駆け寄ってくる唯音に、彼も微笑で応じる。
「よく来たな、唯音。いくつになったね?
「十八よ、おじさま」
「もっとよく顔を見せてごらん。すっかり綺麗になったな」
「おじさまはお変わりにならないのね。相変わらず素敵よ」
唯音はこのおじが大好きだった。早くに妻を亡くし、子供のいない彼は唯音を実の娘のように可愛がってくれていた。
「やあ」
「いらっしゃい、悠哉さん」
思ったより元気そうな様子に、悠哉はほっと胸をなでおろす。
事故のような出来事とはいえ、上海に着いた早々あんな目にあったのだ。唯音がすっかり
「中に入って。お茶でもいかが?」
「ありがとう。いただくよ」
招き入れられ、ダイニングのテーブルにつく。三階の角にある彼女の部屋は、開けた窓から
日当たりのよい、煉瓦造りの西洋風のアパートだ。ダイニングと寝室、小さなキッチンとバスルーム。マントルピースがあり、小花模様の壁紙が貼られ、通りに面した窓にはささやかなベランダがついている。
「どうぞ」
彼の前に紅茶を置き、向かいの席にもうひとつカップを置くと、唯音は自分も椅子に腰を下ろした。
ひと口飲んで美味しいよ、と悠哉が笑い、唯音も微笑み返す。
ふと壁に眼をやると、昨日南京路で買ったばかりの真紅のチャイナドレスがかけられている。
唯音は彼の視線に気づき、
「ボタンがちぎれてしまったので、手直しをしたの。これで着られるわ」
「唯ちゃん……」
「ゆうべは心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。あの人と悠哉さんが来てくれたおかげで、大事には至らなかったし。わたしが悪かったのよ。不注意だったわ」
カップを両手でつつみ、唇を噛む。懸命に気を張った姿がいじらしかった。
「今度から用心すればいいさ。唯ちゃんにみたいに若くて綺麗な娘は、特に気をつけないとね」
深刻な雰囲気を押しやるように、努めて明るい口調で話題を変える。
「今夜はブルーレディと正式に契約するんだろう? 出演料をうんと高く交渉してやらないと」
「唯哉さんってば」
紅茶のカップを口もとに運びながら、唯音が苦笑する。
「あ、でも、その前に陸戦隊本部に寄っていかないと。おじさんが首を長くして待ってるよ」
唯音のおじである
周囲を威圧するかのようにそびえる巨大な建物の前で、唯音はつと足を止めた。
「どうかしたかい、唯ちゃん」
春の柔らかな陽ざしを浴びながら、二、三歩先で悠哉が振り返る。
「あ、いえ、ただの民間人のわたしが陸戦隊本部に行くなんて、何だか気が引けて……」
「僕だってこんないかめしい所に行くのは気が進まないけど、大佐の希望でね。何しろ忙しくてほとんど自宅に帰っていないそうなんだ」
さあ、とうながされ、唯音は再び歩き出す。
「大丈夫さ。僕らは大佐の客人だぜ」
昨日のうちに連絡は入れてあった。取り次いでもらい、指示された部屋の扉をノックすると、中から、どうぞ、という低い声がした。
失礼します、と悠哉が言い、扉を開ける。ゆったりした調度の部屋だ。
白い軍服を着て窓際に立っていた人物がゆっくりとこちらを向いた。年の頃は四十代後半、落ち着いた雰囲気の男性だ。
その姿を見るや、今までの気おくれも忘れて、唯音は瞳を輝かせた。
「おじさま!」
ドアから窓際まで、行儀も放り出して小走りに室内を突っ切っていく。
駆け寄ってくる唯音に、彼も微笑で応じる。
「よく来たな、唯音。いくつになったね?
「十八よ、おじさま」
「もっとよく顔を見せてごらん。すっかり綺麗になったな」
「おじさまはお変わりにならないのね。相変わらず素敵よ」
唯音はこのおじが大好きだった。早くに妻を亡くし、子供のいない彼は唯音を実の娘のように可愛がってくれていた。