第14話 武官
文字数 1,463文字
「わがまま娘のお守りをさせてしまってすまんな、悠哉くん」
「いいえ、とんでもない。僕としては嬉しくて仕方ないんですよ、唯ちゃんがこの街に来てくれて」
「上海行きに両親は反対したのだろう? こちらにも連絡が来てるぞ」
「まあ、何て?」
「ぜひとも唯音を説得して日本に帰して欲しい、とね」
「もうっ、お父さまたちときたら……」
うんざりした顔つきで唯音は唇をとがらせる。
「いやよ、わたし、帰らないわよ。せっかく家を出て自由になれたのに」
「それで、家を出てこんなところまで来て、これからどうするんだね」
「働くわ。わたし、自分の力でこの街で暮らしていくのよ」
「働く? どうやって?」
怪訝そうに眉をひそめる大佐に、悠哉があわてて口をはさむ。
「僕と同じ職場で、唯ちゃんは歌手として出演することになっているんです。ナイトクラブですが、きちんとしたところです。安心してください」
「もうオーディションも済んでいてね、今夜、お店と契約するのよ」
「貴堂の家の娘ともあろうものが……。世間は唯音が考えているほど甘くないぞ」
「覚悟してるわ」
唯音は真剣な表情で答えたが、すぐに屈託ない笑顔に取って代わり、
「そんな怖い顔なさらないで。素敵な紳士が台無しよ」
「やれやれ、かなわないな、おまえには」
嘆息する大佐のかたわらで、悠哉も相槌を打つ。
「まったくですよ。どうぞ心配なさらないでください。僕がついています」
「大変だろうと思うが、この娘 をよろしく頼むよ、悠哉くん」
「もちろんです」
頭を下げる大佐に、悠哉は力をこめて返答する。頼まれずともそうするつもりだ。
「わたしの歌を聴きに、ぜひお店にいらしてね」
「ああ、近いうちにきっと」
大佐が眼を細めて笑んだところへ、遠慮がちに扉を叩く音がした。
「どうぞ」
「お話し中に失礼します」
軍服姿のまだ若い男性が書類を持って部屋に入ってくる。
「僕たちはそろそろ失礼しようか」
耳打ちする悠哉に、唯音は首是する。
「おじさま、わたしたち、今日はこれで失礼します」
「すまんな。もっとゆっくり話ができるといいのだが」
「大丈夫よ、わたし、この街にいるのですもの。これからいくらでも会えるわ」
「そうだな。この後はどこへ行くんだね?」
「今日は中央公園でクラシックコンサートがあるので、少し聴いてから店に行こうと思っています」
「おじさまも一緒に行けたらいいのに」
「おいおい」
隣で悠哉が呆れた声を出す。
「勤務中の武官がコンサートなんて行けるはずないだろう」
二人で行っておいで、と大佐は笑みを刻む。
「楽しい時間を。今度会った時に、その話も聞かせておくれ」
明るくうなずき、会釈する唯音に、大佐は不意に真摯な表情になって、
「唯音、今さら注意するまでもないが、ここは決して治安のいい街とは言えない。充分に気をつけなさい」
「……はい」
心配をかけるのでおじには言わないけれど、昨夜のようなこともあり得るのだ。
真顔で答えると、唯音は悠哉と二人、部屋を出ていく。
その後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見送ると、大佐はかすかに口もとをほころばせた。
──似合いの二人だな。
「大佐」
かたわらに立つ部下の声が、貴堂大佐を現実に引き戻す。
唯音たちの訪問でなごんだ心をいつもの冷徹なものへと切り替え、大佐は渡された書類に眼を走らせた。
書類は先日、虹口地区で起こった爆弾テロの被害状況を報告したものだった。
今年に入って、もう何度目だろう。
上海に駐在して四年。日本の統治に対して独立運動に走る抗日分子──彼らの過激な活動が、今、最も貴堂大佐を悩ませていた。
「いいえ、とんでもない。僕としては嬉しくて仕方ないんですよ、唯ちゃんがこの街に来てくれて」
「上海行きに両親は反対したのだろう? こちらにも連絡が来てるぞ」
「まあ、何て?」
「ぜひとも唯音を説得して日本に帰して欲しい、とね」
「もうっ、お父さまたちときたら……」
うんざりした顔つきで唯音は唇をとがらせる。
「いやよ、わたし、帰らないわよ。せっかく家を出て自由になれたのに」
「それで、家を出てこんなところまで来て、これからどうするんだね」
「働くわ。わたし、自分の力でこの街で暮らしていくのよ」
「働く? どうやって?」
怪訝そうに眉をひそめる大佐に、悠哉があわてて口をはさむ。
「僕と同じ職場で、唯ちゃんは歌手として出演することになっているんです。ナイトクラブですが、きちんとしたところです。安心してください」
「もうオーディションも済んでいてね、今夜、お店と契約するのよ」
「貴堂の家の娘ともあろうものが……。世間は唯音が考えているほど甘くないぞ」
「覚悟してるわ」
唯音は真剣な表情で答えたが、すぐに屈託ない笑顔に取って代わり、
「そんな怖い顔なさらないで。素敵な紳士が台無しよ」
「やれやれ、かなわないな、おまえには」
嘆息する大佐のかたわらで、悠哉も相槌を打つ。
「まったくですよ。どうぞ心配なさらないでください。僕がついています」
「大変だろうと思うが、この
「もちろんです」
頭を下げる大佐に、悠哉は力をこめて返答する。頼まれずともそうするつもりだ。
「わたしの歌を聴きに、ぜひお店にいらしてね」
「ああ、近いうちにきっと」
大佐が眼を細めて笑んだところへ、遠慮がちに扉を叩く音がした。
「どうぞ」
「お話し中に失礼します」
軍服姿のまだ若い男性が書類を持って部屋に入ってくる。
「僕たちはそろそろ失礼しようか」
耳打ちする悠哉に、唯音は首是する。
「おじさま、わたしたち、今日はこれで失礼します」
「すまんな。もっとゆっくり話ができるといいのだが」
「大丈夫よ、わたし、この街にいるのですもの。これからいくらでも会えるわ」
「そうだな。この後はどこへ行くんだね?」
「今日は中央公園でクラシックコンサートがあるので、少し聴いてから店に行こうと思っています」
「おじさまも一緒に行けたらいいのに」
「おいおい」
隣で悠哉が呆れた声を出す。
「勤務中の武官がコンサートなんて行けるはずないだろう」
二人で行っておいで、と大佐は笑みを刻む。
「楽しい時間を。今度会った時に、その話も聞かせておくれ」
明るくうなずき、会釈する唯音に、大佐は不意に真摯な表情になって、
「唯音、今さら注意するまでもないが、ここは決して治安のいい街とは言えない。充分に気をつけなさい」
「……はい」
心配をかけるのでおじには言わないけれど、昨夜のようなこともあり得るのだ。
真顔で答えると、唯音は悠哉と二人、部屋を出ていく。
その後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見送ると、大佐はかすかに口もとをほころばせた。
──似合いの二人だな。
「大佐」
かたわらに立つ部下の声が、貴堂大佐を現実に引き戻す。
唯音たちの訪問でなごんだ心をいつもの冷徹なものへと切り替え、大佐は渡された書類に眼を走らせた。
書類は先日、虹口地区で起こった爆弾テロの被害状況を報告したものだった。
今年に入って、もう何度目だろう。
上海に駐在して四年。日本の統治に対して独立運動に走る抗日分子──彼らの過激な活動が、今、最も貴堂大佐を悩ませていた。