第71話 恋の終わり

文字数 887文字

 深夜の街を二人は黙って歩き続けた。運河にかかる鉄橋まで来たところで、不意に彼が皮肉めいた口調で切り出した。
「いい提案がある。このまま、まず治安局へ行くんだ。そうすればテロリストがひとり逮捕されることになる」
「やめて……!」
 唯音は耳をふさぐ仕草をして激しく(かぶり)を振った
「意地悪を言わないで。そんな話、聞きたくない……!」
 再び漂う沈黙。
 歩きながら幾度も唇を動かしかけて、唯音はその度に眼を伏せた。何かを話さなければいけない気がするのに、言葉が出てこなかった。
 やがて大佐の家の近くまで来ると、二人は街路樹の陰から様子をうかがった。追ってらしい人影は見当たらず、大丈夫だ、と彼は唯音の方を振り返った。
「今のうちに早く行った方がいい」
 背中を押され、歩み出そうとして唯音はためらった。
「どうした?」
「あなたは、これからどうするの」
 まっすぐに彼を見つめ、唯音は問いかけた。自分のために裏切者の烙印を押された彼は、もう仲間のもとへと戻ることはできないはずだ。
「さあ……どうするかな。だが、君が心配することじゃない」
 唯音は彼の瞳を見つめたまま、きゅっと唇を噛んだ。
 ──なぜ、わたしはこの人を憎みきれないの?
 裏切られ、拉致までされたというのに。
 彼と向かいあったまま、唯音はその場を動けずにいた。心が千々に揺れていた。
 言ってくれさえすれば。許してくれと。愛していると。一緒にきてほしいと。
 そうしたら、きっと……。
 しかし彼は唯音が望んだようなことはひとことも言わず、再び彼女の背中を押した。
「さあ、早くおじさんのところへ戻るんだ」
 押し出されるような形で、ためらいながらも唯音は歩み出す。訣別の想いをこめて。
 彼女の後ろ姿にわずかに手を伸ばしかけ、彼は指をきつく握った。
 今さら、と自嘲の笑みが唇から洩れた。
 彼女を裏切ったくせに、どうして愛しているなどと言える?
 伸ばしかけた手を降ろす。自分には彼女を追う資格などありはしない。
 遠く、港の方から汽笛が聞こえていた。
 恋の終わりだった。
 唯音は振り返らなかった。リュウは拳を固めたまま、ただ彼女の後姿を見つめ続けていた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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