第94話 翡翠

文字数 1,010文字

 そうして、迷ったままでむかえた帰国の日。
「寂しくなるね、君たちまで行ってしまうと」
 さよならを告げるためにアパートを訪れてくれたアレクセイがしんみりと言う。
「そうね。わたしたちも寂しくなるわ」
 荷物をまとめ、がらんとした部屋で、唯音もそっと言葉を返す。
 すでに自分のアパートを引き払い、唯音を迎えに来た悠哉は、窓際に腕組みをしてたたずんでいる。窓の外から見える茶褐色の黄浦江(こうほこう)、この景色も今日で見納めだ。
 別れの挨拶に来てくれたのはアレクセイくらいのものだった。ブルーレディはとっくに閉店し、今では別の店になっている。店の仲間たちも、ほとんどがそれぞれの郷里に引き揚げてしまっていた。
「君はこれからどうするんだい、アレクセイ?」
 悠哉の問いかけに、アレクセイは金髪をかきやって遠い眼をした。彼は中国でも日本でもない、もっと遠い北の人間だった。
「僕には故郷なんてないからね。この街で暮らしていくよ」
 革命で国を追われた彼には、帰る場所など存在しないのだ。
「ユイネ、お別れにこれを……」
 アレクセイが上着のポケットから小さな包みを取り出し、唯音の手に渡す。
「なあに?」
 開けてごらん、と彼が片眼をつむってみせ、包みをほどくと中から出てきたのは翡翠(ひすい)のイヤリングだった。
「こんな高価なもの……」
 とまどいがちに美しい緑の石を手のひらに乗せる唯音に、
「大したものじゃないけど、お別れにもらってくれるかい?」
 唯音は彼とイヤリングを交互に見つめ、それから微笑んだ。
「どうもありがとう。大切にするわ」
「つけてみてくれるかな」
 喜んで、と唯音は耳もとにイヤリングを持っていった。翡翠を装った姿を見て、アレクセイは満足げに笑った。
「うん、とてもきれいだ。それからユウヤにはカフスボタン。よかったら使ってくれ」
 ありがとう、と悠哉が箱を受け取った時、ぼうっと港の方角から汽笛が聞こえてきた。肩をすくめ、港には見送りに行かないよ、とアレクセイはわざとおどけた口調で言った。
「船が出ていくのを見るのは嫌いなんだ。悲しくなるからね。二人とも、僕のことを忘れないでおくれ」
「もちろんさ。誰が忘れるものか」
「向こうに着いたら手紙を書くわ」
 さよならの挨拶に二人の肩に手を回して軽く抱きしめ、アレクセイはぽつりとたずねかける。
「またいつか、会えるかな」
 唯音も悠哉も答えなかった。この街を去ろうとしている二人は、ただ哀しげな微笑を浮かべただけだった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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