第65話 拒絶

文字数 670文字

「ずいぶん強情な娘じゃないか」
「おとなしくしていればいいものを、手間を取らせやがって──」
 男のひとりに腕をつかまれ、逃れようとする唯音の頬が鳴った。力まかせに殴られ、彼女は地面に倒れ伏した。
 口の中に血の味が広がっていく。殴られた時に切ったらしかった。
 男は倒れた唯音の腕を再びつかみ、強引に引き起こす。再び殴られるのを予想して、ぎゅっと眼を閉じる。
 が、男が手を振り上げた時だった。
「やめろ!」
 鋭い制止に動きが止まった。建物から出てきた男が走り寄って来る。それが誰かは声でわかった。
 たった今、交渉がまとまった、とリュウは周囲の男たちを見渡して告げた。
「貴堂大佐は我々の要求を承諾した。この娘は捕えられた同志と交換するための大切な人質だ。手を出すな」
 腕をつかんでいた男が舌打ちして唯音を離す。よろける彼女をリュウが支えた。
 交渉がまとまった?
 信じられない思いで唯音は顔を上げ、リュウを凝視した。
 貴堂のおじが人質交換などを承知したというのだろうか。
 殴られた頬がひどく痛んだ。口もとに血をにじませた唯音の姿にリュウが固唾を呑んだ。
「どうして、こんな無茶を……」
 唯音は答えなかった。口の中が切れて、うまくしゃべれなかったせいもある。
「とにかく部屋に戻ってくれ。あと少しの辛抱だ」
 敵意をみなぎらせた仲間たちからかばうように、リュウは彼女の肩を抱いて屋敷へと引き返そうとする。
 だが、唯音はその手を振り払った。
「……ないで」
「え?」
「わたしに……さわらないで!」
 傷ついた彼女は、それでもありったけの気力を振りしぼって彼を拒絶した。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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