第9話 ウイスキー・ソーダ

文字数 1,287文字

 この日の悠哉たちのステージは全部で三回、最終は十二時の予定だった。
 好評のうちに初めての舞台を終えた唯音は、隅のテーブルに頬杖をついて彼らの二度目の演奏を聴いていた。
 オーディションも兼ねていたので、今夜の彼女の出番は一回きりなのだ。
 二回目の演奏が終わり、拍手のうちにメンバーが舞台を降りる。悠哉が近づいてきてウイスキー・ソーダを差し出す。
 ありがとう、と笑み、唯音はグラスを受け取った。店の人いきれでほてった体に冷たい飲み物が心地よかった。
 グラスの中の琥珀色の液体を半分ほど飲んでしまうと、唯音はふうっと大きく息をついた。
「疲れたかい?」
「少しね。いきなりの初舞台だったんですもの」
「でも、良かったよ。支配人も気に入って、明日は契約にこぎつけたし」
「悠哉さんのおかげね」
 ウイスキー・ソーダのグラスを片手に、感謝をこめた瞳を向ける。
「ところでわたしは、今夜はもう帰ってもいいのかしら」
「ああ、僕らはまだワンステージ残ってるけど、唯ちゃんはおしまいだしね。支配人の巳月さんに挨拶して……」
「支配人さんはどこに?」
 奥の壁際に立ってる、と教えてくれながら、悠哉が思案顔になる。
「やっぱり、もうしばらく待っていてくれないかな。次の演奏が終われば僕もおしまいだ。送っていくよ」
「あら、ひとりでも平気よ。ちゃんとアパートの場所もわかるし」
「そうはいくもんか。ここは東京じゃないんだぜ」
「おーい、悠哉くん!」
 神妙に諭す悠哉に、三回目のステージの準備にバンドの仲間から声がかかる。
「いいね。待っているんだよ」
 念を押して悠哉は仲間たちの方へ歩いていく。が、彼が行ってしまうと、唯音は肩をすくめ、支配人に近づいていった。
 ──もうっ、悠哉さんってば、本当に心配性なんだから。
 実際、唯音は疲れていた。日本から上海までの船旅、いきなりのオーディションと初舞台。早くアパートに帰って、ベッドにもぐりこみたかった。
 支配人、と声をかけると、壁際で店内の様子を見ていた彼が振り返った。
「唯音さん。何か?」
「わたし、今日はこれで失礼させていただきたいのですが」
「結構。車を呼びましょう」
「平気ですわ、そんなに遠くありませんし」
 悠哉が借りてくれたアパートは虹口(ホンキュウ)地区にあって、ここからでも歩いていける距離だ。
「しかし……」
 と彼が言いかけた時だ。
 客席で何かトラブルがあったらしい。ウエイターがあわてて支配人を呼びに来た。
 注意を向けると、奥の席から言い争う声が聞こえてくる。酔った上での口論のようだ。
「それでは、おやすみなさい。また明日、よろしくお願いします」
 酔客のトラブルの仲裁が終わるのを待っていたら、いつになるかわからない。唯音は頭を下げ、その場を離れた。
 バッグを持ち、ブルーレディの裏口のドアを開け、外に出る。ネオンが輝く南京路をよぎり、港の方角へ足を向ける。
 港通りまで来ると、唯音は自分のアパートのある虹口地区へ急いだ。街の北側を流れる蘇州(そしゅう)河にかかる鉄橋、ガーデン・ブリッジを渡る。
 橋の途中に西洋人の水夫たちがたむろしていた。唯音を見て、からかうように口笛を吹いてよこす。




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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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