第97話 上海ベイ
文字数 1,189文字
涙で外灘 がぼんやりと滲んでいた。すべてが儚 い夢のようだった。
船に、戻らなくては。
自分に言いきかせ、今度こそ桟橋に引き返そうとした時だ。ふと人の気配を感じて唯音は振り返った。
ぱちぱちと拍手がして、聞き覚えのある低い声が耳に飛び込んでくる。
「相変わらず、素晴らしい歌声だな」
街路樹の葉陰の下、そこに立つ姿に唯音の瞳が大きく見開かれた。
一瞬、望むあまりの幻影ではないかと疑い、ひと呼吸おいて、やっと現実だと認識する。
その姿は、まぎれもなく、リュウ──。
「やっと見つけた」
笑みをたたえ、彼は両手を広げる。
「ブルーレディは別の店になっているし、君はアパートも移ってしまっていただろう? この人口の多い上海で人探しは苦労したぞ」
が、驚きや嬉しさといった感情と同時に、無性に怒りがこみあげてきて。唯音は唇を引き結び、歩み寄る彼の胸めがけて拳を振り上げた。
「お、おい、何だ !?」
胸や腕を本気で叩く唯音に、彼が眼を白黒させる。
「遅いわ──遅すぎる! どうしてもっと早く来てくれなかったの !?」
次々と彼女の口をついて出る、抗議の言葉。
「わたしは待ちきれずに、もう少しで日本に帰ってしまうところだったのよ。そうしたら二度と会えなかったかもしれないのに!」
「──つぅ」
不意に顔をしかめるリュウに、唯音はあわてて手を止めた。彼が胸を押さえながら苦笑してみせる。
「死にかけて、やっと戻ってきたんだ。もう少し優しくしてくれないか」
その時になって初めて唯音は彼のワイシャツの胸もとから白い包帯がのぞいていることに気づく。
「その傷は……?」
「奥地で戦闘に巻きこまれたんだ」
固唾を呑む唯音に、深刻ないきさつをあっさりと口にする。
「耳もとで銃声を聞きながら、君のことを考えた。自分でも意外だった。初めて死にたくない、と思ったよ」
──わたし、待ってるわ! この戦争が終わるまで。
死線をさまよっていた時、幾度も繰り返し、心に呼びかけ、生きる力を与えてくれた声。離れてなおのこと、強く自分を惹きつけてやまなかった面影。
「やり直せる、と言ったな。今でも気持ちは変わってないか……?」
自分たちの、二つの国の間の、消し去ってしまうには多すぎた不幸。
目の前の唯音を痩せた、と彼は思った。出会った頃は翳 りなど微塵もない、花のような少女だったのに。
もしも唯音が辛いのならば。あまりに多くの哀しみに、もはや淵が越えられないのなら……。
が、眼を伏せる彼に、唯音は微笑しながらゆっくりと口を開いた。
「言ったでしょう? わたしたち、きっとやり直せると」
もう、迷わない。
泣きながらもほほえんで、唯音は彼にそっと身を寄せる。
二つの国の、暗い、いくつもの夜を越えて。身をよせた胸から確かなぬくものが伝わってくる。
愛した男 の優しい笑顔。その向こうに大地の色の水をたたえた上海港の情景が広がっていた。
船に、戻らなくては。
自分に言いきかせ、今度こそ桟橋に引き返そうとした時だ。ふと人の気配を感じて唯音は振り返った。
ぱちぱちと拍手がして、聞き覚えのある低い声が耳に飛び込んでくる。
「相変わらず、素晴らしい歌声だな」
街路樹の葉陰の下、そこに立つ姿に唯音の瞳が大きく見開かれた。
一瞬、望むあまりの幻影ではないかと疑い、ひと呼吸おいて、やっと現実だと認識する。
その姿は、まぎれもなく、リュウ──。
「やっと見つけた」
笑みをたたえ、彼は両手を広げる。
「ブルーレディは別の店になっているし、君はアパートも移ってしまっていただろう? この人口の多い上海で人探しは苦労したぞ」
が、驚きや嬉しさといった感情と同時に、無性に怒りがこみあげてきて。唯音は唇を引き結び、歩み寄る彼の胸めがけて拳を振り上げた。
「お、おい、何だ !?」
胸や腕を本気で叩く唯音に、彼が眼を白黒させる。
「遅いわ──遅すぎる! どうしてもっと早く来てくれなかったの !?」
次々と彼女の口をついて出る、抗議の言葉。
「わたしは待ちきれずに、もう少しで日本に帰ってしまうところだったのよ。そうしたら二度と会えなかったかもしれないのに!」
「──つぅ」
不意に顔をしかめるリュウに、唯音はあわてて手を止めた。彼が胸を押さえながら苦笑してみせる。
「死にかけて、やっと戻ってきたんだ。もう少し優しくしてくれないか」
その時になって初めて唯音は彼のワイシャツの胸もとから白い包帯がのぞいていることに気づく。
「その傷は……?」
「奥地で戦闘に巻きこまれたんだ」
固唾を呑む唯音に、深刻ないきさつをあっさりと口にする。
「耳もとで銃声を聞きながら、君のことを考えた。自分でも意外だった。初めて死にたくない、と思ったよ」
──わたし、待ってるわ! この戦争が終わるまで。
死線をさまよっていた時、幾度も繰り返し、心に呼びかけ、生きる力を与えてくれた声。離れてなおのこと、強く自分を惹きつけてやまなかった面影。
「やり直せる、と言ったな。今でも気持ちは変わってないか……?」
自分たちの、二つの国の間の、消し去ってしまうには多すぎた不幸。
目の前の唯音を痩せた、と彼は思った。出会った頃は
もしも唯音が辛いのならば。あまりに多くの哀しみに、もはや淵が越えられないのなら……。
が、眼を伏せる彼に、唯音は微笑しながらゆっくりと口を開いた。
「言ったでしょう? わたしたち、きっとやり直せると」
もう、迷わない。
泣きながらもほほえんで、唯音は彼にそっと身を寄せる。
二つの国の、暗い、いくつもの夜を越えて。身をよせた胸から確かなぬくものが伝わってくる。
愛した