第78話 母と子

文字数 894文字

 唯音とひとまず別れて、さらに北の方角へ。悠哉は自分のアパートへ急いでいた。
 状況は切迫し、いつ市街戦になるかわからない。一刻も早く、唯音と共に避難しなければならない。
 すでに住民は避難してしまったらしく、ひっそりした建物の階段を駆け上がり、部屋の鍵を開けようとした時だった。
 どこかから女の子の泣き声が聞こえたような気がして、悠哉は鍵を回す手を止めた。
 空耳かとも思ったが、耳をすますと確かに声は建物の奥から流れてくる。
 どうしてこんな時に子供の泣き声が……。
 不審な思いで悠哉は声のする方へと足を向けた。声は彼と同じ階の、突き当りの部屋から聞こえている。
 ドアには水無瀬(みなせ)と簡素な表札が出ていた。確か親子三人で住んでいて、悠哉も幾度か挨拶を交わしたことがあった。
「水無瀬さん、いらっしゃるんですか?」
 呼びかけながらドアを叩いたが、返答はない。
「水無瀬さん」
 もう一度、呼びかける。子供の泣き声にまじって、はい、と消え入りそうな女性の声がした。
「同じ階の中原です。失礼しますよ」
 ノブを回すと、鍵もかかっておらず、ドアは簡単に開いた。
 部屋の中にはベッドに横たわった母親と、かたわらで泣いている少女がいた。
「どうしたんだい、美夜ちゃん」
 わざと明るい口調で女の子に話しかける。美夜という名の少女は確か今年で六つになる。
「……お兄ちゃん」
 泣きながら、美夜は子犬のように飛びついてくる。
「ああ、そんなに泣かないで」
 悠哉は美夜を抱き上げると母親の方へ歩み寄った。
「どうなさったんです? 他の方たちはとっくに避難していますよ」
 悠哉のいぶかしげな問いかけに母親が苦し気に口を開く。
「わかっています。でも、わたしが動けなくて……」
「どこかお悪いんですか?」
 答えようとして母親は咳きこんだ。胸をわずらっているのかもしれなかった。
「ご主人はどうしているんです?」
「あの人は軍人です。今はお国のために働いています」
 ──こんな危険な中に病気の妻と子供を放っておいてか。
 悠哉は眉根をよせたが、黙っていた。
 現実に、任務についている軍人がこの騒乱の中、家族のもとへと簡単に戻ってはこられないだろう。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み