第8話 視線
文字数 1,694文字
午後六時。宵闇が街を包む頃、店の営業が始まり、今日もブルーレディは盛況だった。客席には国際都市・上海を象徴するかのように、金髪や赤毛や黒髪、雑多な人種が入っている。
人々の話し声でざわめく客席を眺めながら、唯音は壁際にじっと立ちつくしていた。
「緊張してかちこちだわ」
もうじきステージで演奏が始まる。その舞台の出来が、契約の是非を決めるのだ。
「心配ないさ、唯ちゃんなら」
「でも……」
瞳に不安の色を宿す唯音の横で、悠哉が鷹揚に微笑する。
「いつも通り自由に、のびやかに、唯ちゃんらしく歌えばいい」
悠哉の言葉が心に染みて、唯音は微笑み返した。張りつめた気持ちが、いくぶん楽になる。
「そうするわ。ありがとう、悠哉さん」
客席の照明のトーンが落とされ、代わって一段高くなったステージにライトが照らされる。
「さあ、行こう」
悠哉に背中を軽く押され、唯音はステージに向かって歩き出した。
舞台にバンドが現れると、フロアのあちこちから、ぱちぱちと拍手が起きる。
客席にむかってお辞儀すると、悠哉たちのバンド「ドリーマー」は「ダイナ」の曲のイントロを奏で出した。
心臓がどくんどくん早鐘を打っている。その音を意識しながら、唯音は呼吸を整え、唇を開いた。
フロアいっぱいに流れ出す、澄んだ、美しい声。滑らかな英語の歌詞。
それは飲むことや、店の女の子を口説くことに夢中になっていた客たちまでをも、振り向かせるのに充分だった。
唯音は夢中で歌っていった。いつしか自分の心臓の音も気にならなくなっていた。
サックスを吹きながら、悠哉は歌い続ける唯音を見守っていた。
まるで小夜啼鳥 のような声だ。
そして声だけでなく、ほっそりした姿を真紅のチャイナドレスにつつみ、髪には一輪のばらを挿し、ライトを浴びて歌う彼女は美しかった。彼はそんな唯音が誇らしかった。
もっとも、自分は振られてばかりだが。
演奏する手を正確に動かしつつ、内心で苦笑する。
以前、何度かプロポーズめいた言葉を口にしたが、まだ彼女が学生だったせいもあって、結婚なんて考えたこともないわ、とかわされてしまっていた。
まあ、いいさ、当分は「兄さん」で。
わたしは自由でいたいの。誰のためでもなく、自分自身の人生を歩みたいわ。それが唯音の口癖だったし、彼としても、いきいきとしている彼女を見るのが好きだった。
「ダイナ」に続き、曲が「アイ・オンリー・ハヴ・アイズ・フォー・ユー」に変わる。甘い、アメリカの流行歌だ。
間にインストメンタルを挟み、唯音は得意のナンバーを歌っていった。フロアの中央では何組かの男女が踊っている。
次の曲の間奏に入った時だった。不意に強い視線を感じて、唯音はそちらに眼をやった。
ブルーレディの扉の脇に、上着を肩にかけ、壁にもたれかかっている男がいた。視線の主は彼だった。
ひとめ見た瞬間に心を鷲掴みにしてしまうような、まっすぐな、鋭いまでの眼差し。深い哀しみや怒り、揺るがぬ意志、さまざな感情を奥底に秘めた──。
うなじや額にかかる、やや長めの黒い髪。ネクタイを無造作に結んだワイシャツ姿。大人びて見えるが、年は自分とさほど違わないだろう。
ひととき、二人は瞳を見かわした。席は空いているのに、彼は座ろうともしなかった。
──お嬢さん!
そばにいたクラリネット奏者にひそかに目くばせされ、唯音ははっとした。
いけない、間奏が終わろうとしている。
あわてて気を引きしめ、マイクに向かい直す。幸い、彼女の小さなとまどいは客席には気づかれていないようだった。
唯音はとりあえず彼の存在を頭から追い払い、歌だけに集中した。
あと少し。自分はオーディションを兼ねた大切なステージを務めている歌い手なのだ。
美しい余韻を残して歌い終わると、唯音は客席に向かって深々と頭を下げた。すぐさま大きな拍手が湧き起こる。
あの男 は?
顔を上げた唯音はわずかに眼を細め、まばたきした。強烈な印象だけを残して彼の姿はもうなかった。
華やかなナイトクラブで、孤独そうに際立っていた、強い視線を持つ男。
なぜかしら、その姿が心に焼きついて離れなかった。

人々の話し声でざわめく客席を眺めながら、唯音は壁際にじっと立ちつくしていた。
「緊張してかちこちだわ」
もうじきステージで演奏が始まる。その舞台の出来が、契約の是非を決めるのだ。
「心配ないさ、唯ちゃんなら」
「でも……」
瞳に不安の色を宿す唯音の横で、悠哉が鷹揚に微笑する。
「いつも通り自由に、のびやかに、唯ちゃんらしく歌えばいい」
悠哉の言葉が心に染みて、唯音は微笑み返した。張りつめた気持ちが、いくぶん楽になる。
「そうするわ。ありがとう、悠哉さん」
客席の照明のトーンが落とされ、代わって一段高くなったステージにライトが照らされる。
「さあ、行こう」
悠哉に背中を軽く押され、唯音はステージに向かって歩き出した。
舞台にバンドが現れると、フロアのあちこちから、ぱちぱちと拍手が起きる。
客席にむかってお辞儀すると、悠哉たちのバンド「ドリーマー」は「ダイナ」の曲のイントロを奏で出した。
心臓がどくんどくん早鐘を打っている。その音を意識しながら、唯音は呼吸を整え、唇を開いた。
フロアいっぱいに流れ出す、澄んだ、美しい声。滑らかな英語の歌詞。
それは飲むことや、店の女の子を口説くことに夢中になっていた客たちまでをも、振り向かせるのに充分だった。
唯音は夢中で歌っていった。いつしか自分の心臓の音も気にならなくなっていた。
サックスを吹きながら、悠哉は歌い続ける唯音を見守っていた。
まるで
そして声だけでなく、ほっそりした姿を真紅のチャイナドレスにつつみ、髪には一輪のばらを挿し、ライトを浴びて歌う彼女は美しかった。彼はそんな唯音が誇らしかった。
もっとも、自分は振られてばかりだが。
演奏する手を正確に動かしつつ、内心で苦笑する。
以前、何度かプロポーズめいた言葉を口にしたが、まだ彼女が学生だったせいもあって、結婚なんて考えたこともないわ、とかわされてしまっていた。
まあ、いいさ、当分は「兄さん」で。
わたしは自由でいたいの。誰のためでもなく、自分自身の人生を歩みたいわ。それが唯音の口癖だったし、彼としても、いきいきとしている彼女を見るのが好きだった。
「ダイナ」に続き、曲が「アイ・オンリー・ハヴ・アイズ・フォー・ユー」に変わる。甘い、アメリカの流行歌だ。
間にインストメンタルを挟み、唯音は得意のナンバーを歌っていった。フロアの中央では何組かの男女が踊っている。
次の曲の間奏に入った時だった。不意に強い視線を感じて、唯音はそちらに眼をやった。
ブルーレディの扉の脇に、上着を肩にかけ、壁にもたれかかっている男がいた。視線の主は彼だった。
ひとめ見た瞬間に心を鷲掴みにしてしまうような、まっすぐな、鋭いまでの眼差し。深い哀しみや怒り、揺るがぬ意志、さまざな感情を奥底に秘めた──。
うなじや額にかかる、やや長めの黒い髪。ネクタイを無造作に結んだワイシャツ姿。大人びて見えるが、年は自分とさほど違わないだろう。
ひととき、二人は瞳を見かわした。席は空いているのに、彼は座ろうともしなかった。
──お嬢さん!
そばにいたクラリネット奏者にひそかに目くばせされ、唯音ははっとした。
いけない、間奏が終わろうとしている。
あわてて気を引きしめ、マイクに向かい直す。幸い、彼女の小さなとまどいは客席には気づかれていないようだった。
唯音はとりあえず彼の存在を頭から追い払い、歌だけに集中した。
あと少し。自分はオーディションを兼ねた大切なステージを務めている歌い手なのだ。
美しい余韻を残して歌い終わると、唯音は客席に向かって深々と頭を下げた。すぐさま大きな拍手が湧き起こる。
あの
顔を上げた唯音はわずかに眼を細め、まばたきした。強烈な印象だけを残して彼の姿はもうなかった。
華やかなナイトクラブで、孤独そうに際立っていた、強い視線を持つ男。
なぜかしら、その姿が心に焼きついて離れなかった。
