第29話 真実

文字数 1,798文字

 進むにつれ、いつしか街灯は途切れ、通りは暗く、狭くなっていく。
「リュウ……」
 歩きながら心細さにかられ、唯音は彼の腕をぎゅっとつかんだ。
「怖いか?」
 無言でうなずく彼女の不安を和らげるように、彼が細い肩を抱き寄せる。
「大丈夫、俺がついてる。決して危険な目にはあわせない。ただ、君自身の眼で見てほしいんだ」
「わたしの眼で?」
 まばたきする唯音の肩を抱く手に力がこもる。
「バッグはかかえていた方がいい。いつひったくられるかわからないからな」
 言われて唯音はバッグを胸にかかえこんだ。通りの角で立ち止まり、彼は路地の奥を指し示した。
「見てごらん、ここにいる連中を」
 うながす視線の先を追って唯音は眼を見開いた。
 きらびやかな街の中心を離れた裏通り。そこには路上に座り込んだ大勢の人々の姿があった。
 着古した服をまとい、ある者は(うつ)ろな眼で、またある者は敵意をこめて、こちらを眺めている。
「この人たちは……」
「あちこちの地方からこの街に流れこんできた難民たちだ。仕事も住む家もなく、こうして路上で暮らしている。冬になれば毎日のように凍死者が出る」
 立ちつくしたまま、唯音は唇を噛む。
「なぜ、こんな……」
「外国の侵略と今の国民党政府の無策……その結果の貧困のせいさ。畑を荒らされたり、土地を奪われたりして、多くの難民がこの街に流れてきているんだ」
 冷たい声だった。まるで外国人である自分を責めるかのように。
「さっきの爆弾テロも、植民地支配への抵抗活動さ。この国を自分たちの手に取り戻そうとしているんだ」
「外国、から?」
「そうだ」
 彼の言う外国には日本も含まれている。いや、おそらく最大の敵こそが日本だろう。
 小綺麗な身なりをした異端者の姿に、難民たちの間の空気がかすかにざわめき出す。不穏な気配を察して、戻ろう、と彼が踵を返す。
 痛いほどの視線に囲まれて、隙を見せないように、今来た道を早足で戻る。唯音は身を固くし、彼に合わせてなかば走るように歩いていく。
 やっと表通りに出ると、唯音は街灯の下で足を止め、絞り出すように言葉を発した。
「……本当は、上海に着いた時から気づいてた。でも、わたし、考えないように、見ないふりをしていたのよ」
 華やかな街の裏側を。石造りの高層ビルや洒落た西洋風のアパートとは無縁に、路上で暮らす人々のことを。
 祖国の植民地支配。自分の今の生活は、この国の人々の犠牲の上に成り立っているものだったのだ。
「わたしを軽蔑する? 何も知ろうとしないで安穏と暮らしていたわたしを」
 いや、と彼は静かに首を横に振った。
「そうじゃない。ただ君に現実を知ってほしかったんだ」
 穏やかな口調だった。だが、彼と自分の間には深い溝があるのかもしれない、と唯音は初めて感じた。
 胸が切り裂かれるように痛み、街灯がにじんで見えた。彼女は、もうとっくに恋してしまっていた。
 やがて二人は彼女の住居にたどり着いた。軍隊に守られた地区の、赤レンガ造りのアパートに。
 階段を登り、ドアの前で、彼女の肩にそっと手を置き、彼がおやすみを告げる。
「おやすみなさい」
 うつむいたまま、唯音はぽつりと答えた。
 もっと話したいことが、言わなければいけない大切なことがあるような気がする。
 越えられないかもしれない、彼と自分の間の深い淵。
 ──いいえ! 
 去っていこうとする彼の後姿を見つめながら、唯音は激しくそんな考えを打ち消した。
 たとえ国が違っていても。そして、その国と国が互いに争っていても。自分はひとりの娘として彼を愛したのだ。
「待って!」
 想いが堰を切ったようにあふれ、唯音は駆け寄ると、彼の背中にしがみついた。
「唯音……?」
 背中越しに彼のとまどう声が伝わってくる。
「行かないで。……遠いままで、行ってしまわないで」
 背中にすがりついたまま、消え入りそうな声で告げる。
 彼が小さく息を呑む気配がした。ゆっくりと向き直り、両手で唯音の涙の伝わる頬をつつんで見つめる。
 唯音は涙に濡れた瞳で、まっすぐに彼を見つめ返した。伝えずにはいられなかった。淵を越えたかった。
「唯音──」
 もう一度、今度は想いを確認するように名を呼んで、彼は唯音の華奢な体を強く抱きしめた。
 彼の胸に顔を埋め、その背に両手を回しながら唯音は眼を閉じた。
 彼女にとっては国の政争も街の不穏も関係なかった。今、彼がここにいること、それがすべてだった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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