第17話 ミッシェル
文字数 1,584文字
彼は何事もなかったかのように廊下を進み、ブルーレディの裏口のドアを開けた。
色鮮やかなネオン。通りを行き交う人々のざわめき。店の外は相変わらず喧騒に満ちている。
「……彼女に悪いわ」
通りを横切り、フランス租界、准海 路を歩きながら、唯音はぽつりと唇を動かした。
「リーリのことか?」
「彼女、あなたを好きなのよ」
「ただの幼なじみさ。特別な関係じゃない」
「でも、彼女はあなたを想っているわ」
「それはリーリの側の問題だろう」
「冷たいのね」
非難めいた口調に、彼はわずかに苦笑いする。
「だったら君は、愛されたら、愛し返さなければいけないかい?」
「そんなことは、ないけれど……」
言葉につまる唯音に、彼は前方の建物をすっと指差した。
「あれがこの街でも一流のクラブ、ミッシェルだ」
円柱のある白い建物。エントランスには赤いイルミネーションが灯り、道行く人々を誘 っている。その下をくぐり、クロークにコートと荷物を預け、真紅の絨毯の敷かれた階段を登っていく。
高い柱。豪奢なシャンデリアがきらめき、ボールルームでは着飾った人々が優雅に踊っている。
ボールルームの入り口で唯音はとまどうように立ち止まった。
「どうした?」
「何だかあまり豪華すぎて、気遅れしてしまったの」
テーブルの上にはゆらめくキャンドル。ゆったり流れる音楽と衣ずれの音。ブルーレディも雰囲気のいいナイトクラブではあるが、とてもここの比ではなかった。
ためらう唯音に彼は肩をすくめ、
「何を言い出すかと思ったら……。フロアをよく見てごらん。君にかなう娘なんていやしないさ」
彼の言葉通り、ローズ色のイブニングドレスをまとった唯音は美しかった。ここにいる華やかな女性たちに全く引けを取らない。
楽団の奏でる曲が終わり、ほどなく次の旋律が流れ出す。
「ワルツだ。踊れるかい?」
「少しだけ……」
彼が手を差し出し、それを唯音が取ると、二人は曲にすべりこんだ。
巧みなリードのおかげで、さほど踊れない唯音でも軽やかに舞える。まるで背中に羽が生えたかのようだ。
何曲か踊ると、二人はボールルームの隅のテーブルについた。丁重な態度のウエイターにカクテルを頼む。
華奢なカクテルグラスを軽くかかげ、甘くて熱い液体が喉を通り過ぎると、唯音は彼をじっと見つめた。うなじや額にかかるやや長めの髪。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。
「何だ?」
自分に注がれる視線に気づき、彼が問いかける。
「不思議な人だなって思ったの」
「俺が?」
「あなた、仕事は? 何をやってるの?」
「詮索好きだな、君は」
女なみんなそうよ、と微笑し、さらにたずねようとした時。
ボールルームの奥の舞台がライトで照らされ、歌い手らしい女性が姿を現した。
「ほら、ステージが始まるぜ」
追及をはぐらかすように、舞台の方を顎でしゃくってみせる。
かわされた不満を覚えつつ、唯音も舞台に眼をやった。バンドを従え、金髪の女性が中央に立っている。
その姿に唯音は絶句した。
もちろん歌は姿形で歌うものでないくらい、わかっている。
しかし、そこに立つ女性は歌姫と呼ぶにはあまりに太り過ぎていた。でっぷりした体とまるい顔。上品な紫のドレスに身をつつんではいるが、お世辞にも美しいとは言えない。
だが、イントロの後、彼女が歌い出すと、あたりの空気が一変した。少なくとも唯音にはそう感じられた。
艶のある豊かな声量。切ない想いを秘めた恋歌を、あふれるような情感で歌い上げていく。
「マリ・ブランシュさ。この街で一番と言われる歌い手だ」
両手の指を組み合わせ、うっとりと聞き惚れる唯音に、歌の合間に彼が教えてくれる。
「お気に召したかな」
「もちろんよ。素晴らしいわ!」
「君に彼女の歌を聴かせたかったんだ。足を運んだかいがあっただろう?」
次の曲の前奏に耳をかたむけながら、カクテルグラスを手に彼が小さく笑んだ。
色鮮やかなネオン。通りを行き交う人々のざわめき。店の外は相変わらず喧騒に満ちている。
「……彼女に悪いわ」
通りを横切り、フランス租界、
「リーリのことか?」
「彼女、あなたを好きなのよ」
「ただの幼なじみさ。特別な関係じゃない」
「でも、彼女はあなたを想っているわ」
「それはリーリの側の問題だろう」
「冷たいのね」
非難めいた口調に、彼はわずかに苦笑いする。
「だったら君は、愛されたら、愛し返さなければいけないかい?」
「そんなことは、ないけれど……」
言葉につまる唯音に、彼は前方の建物をすっと指差した。
「あれがこの街でも一流のクラブ、ミッシェルだ」
円柱のある白い建物。エントランスには赤いイルミネーションが灯り、道行く人々を
高い柱。豪奢なシャンデリアがきらめき、ボールルームでは着飾った人々が優雅に踊っている。
ボールルームの入り口で唯音はとまどうように立ち止まった。
「どうした?」
「何だかあまり豪華すぎて、気遅れしてしまったの」
テーブルの上にはゆらめくキャンドル。ゆったり流れる音楽と衣ずれの音。ブルーレディも雰囲気のいいナイトクラブではあるが、とてもここの比ではなかった。
ためらう唯音に彼は肩をすくめ、
「何を言い出すかと思ったら……。フロアをよく見てごらん。君にかなう娘なんていやしないさ」
彼の言葉通り、ローズ色のイブニングドレスをまとった唯音は美しかった。ここにいる華やかな女性たちに全く引けを取らない。
楽団の奏でる曲が終わり、ほどなく次の旋律が流れ出す。
「ワルツだ。踊れるかい?」
「少しだけ……」
彼が手を差し出し、それを唯音が取ると、二人は曲にすべりこんだ。
巧みなリードのおかげで、さほど踊れない唯音でも軽やかに舞える。まるで背中に羽が生えたかのようだ。
何曲か踊ると、二人はボールルームの隅のテーブルについた。丁重な態度のウエイターにカクテルを頼む。
華奢なカクテルグラスを軽くかかげ、甘くて熱い液体が喉を通り過ぎると、唯音は彼をじっと見つめた。うなじや額にかかるやや長めの髪。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。
「何だ?」
自分に注がれる視線に気づき、彼が問いかける。
「不思議な人だなって思ったの」
「俺が?」
「あなた、仕事は? 何をやってるの?」
「詮索好きだな、君は」
女なみんなそうよ、と微笑し、さらにたずねようとした時。
ボールルームの奥の舞台がライトで照らされ、歌い手らしい女性が姿を現した。
「ほら、ステージが始まるぜ」
追及をはぐらかすように、舞台の方を顎でしゃくってみせる。
かわされた不満を覚えつつ、唯音も舞台に眼をやった。バンドを従え、金髪の女性が中央に立っている。
その姿に唯音は絶句した。
もちろん歌は姿形で歌うものでないくらい、わかっている。
しかし、そこに立つ女性は歌姫と呼ぶにはあまりに太り過ぎていた。でっぷりした体とまるい顔。上品な紫のドレスに身をつつんではいるが、お世辞にも美しいとは言えない。
だが、イントロの後、彼女が歌い出すと、あたりの空気が一変した。少なくとも唯音にはそう感じられた。
艶のある豊かな声量。切ない想いを秘めた恋歌を、あふれるような情感で歌い上げていく。
「マリ・ブランシュさ。この街で一番と言われる歌い手だ」
両手の指を組み合わせ、うっとりと聞き惚れる唯音に、歌の合間に彼が教えてくれる。
「お気に召したかな」
「もちろんよ。素晴らしいわ!」
「君に彼女の歌を聴かせたかったんだ。足を運んだかいがあっただろう?」
次の曲の前奏に耳をかたむけながら、カクテルグラスを手に彼が小さく笑んだ。