第81話 海鳴り

文字数 644文字

 その頃、唯音は落ち着きなく部屋の中を行ったり来たりしていた。
 遅すぎるわ、いったいどうしたの、悠哉さん。
 幾度も時計を見つめる彼女を、言いようのない不安がからめとる。
 まさか、何かあったのじゃ……。
 悠哉が理由もなしに約束を放り投げるはずがない。
 もう一度、時計を見て、唯音は決心したように鞄を手にした。悠哉のアパートまで行ってみようと思ったのだ。
 部屋に鍵をかけ、建物の外へ出て、通りを歩き出そうとした時だった。
 家財道具を詰めこんだ避難民の手押し車が、周囲の人混みを蹴散らすように、ものすごい勢いで突進してきたのだ。
「──!」
 あっという間の出来事だった。よけようとした唯音は勢いに弾き飛ばされ、背後の壁にしたたかに背中を打ちつけた。
 荷車を押していた男は唯音には眼もくれず、無我夢中で郊外をめざして走り去っていく。
 壁にもたれたまま、唯音は頭をかかえこんだ。打ちつけた時に脳震盪(のうしんとう)をおこしたのか、眩暈(めまい)がする。
 これではとても避難民でごった返す街を歩けそうもない。唯音は荷物を拾い、自分の部屋へと引き返そうとした。
 壁に手をつき、すがるようにして、のろのろと建物に入っていく。やっとの思いで階段を登り、部屋の鍵を開ける。
 それが精一杯だった。鞄をどさっと床に置くと、唯音はベッドに倒れ伏した。
 ここにいれば、きっと悠哉が来てくれるはずだ。
 ぼやけていく思考の片隅で、そんな望みをつなぐ。
 街の喧騒がまるで海鳴りのようだった。遠く近く、騒乱を耳にしながら、唯音の意識は遠のいていった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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