第3話 南京路

文字数 1,269文字

 上海きっての繁華街は共同租界(そかい)にある南京(ナンキン)()だ。石造りのアール・デコ調の建物が続き、絶え間なく人が行き交うさまは、国際都市のメインストリートにふさわしい。
「すごいわ、まるでお祭りみたい」
 悠哉が借りておいてくれたアパートにトランクを置いて、黒塗りのタクシーから降り立った唯音は、瞳を輝かせながら周囲を見渡した。
 港からまっすぐに伸びた大通り、重厚な西洋建築の下を異国の人々が闊歩し、サリーをまとった美しい女性が唯音の横を通り過ぎていく。
 そのエキゾチックな後ろ姿に見とれる唯音に、悠哉がむずかしい顔つきで説明してくれる。
「上海には西洋、東洋、とりまぜて五十ヵ国もの、あらゆる人間が住んでいるんだ。自由で享楽的な植民地都市(コロニアルシティ)……。魔都だの、楽園だの、さまざまな呼び方をされてる。迷宮(ラビリンス)みたいな街さ」
 元々、上海は黄浦江(こうほこう)に沿った、小さな港町に過ぎなかった。が、清朝中国がアヘン戦争でイギリスに敗北し、締結した南京条約によって、租界──治外法権の外国人居留地が誕生する。
 唯音が訪れた頃には、イギリス、アメリカを中心とする共同租界、そこに隣接するフランス租界、共同租界の一部でありながら日本租界と呼ばれた虹口(ホンキュウ)租界に街は別れ、繁栄を謳歌していたのである。
「不思議な都市(まち)ね……」
 中国の中の異国。万華鏡(まんげきょう)のように華やかな世界。この街の持つ独特な魅力が心を惹きつける。
「ここには何でもそろってるぜ。競馬にダンスホールにドッグレース、ハリウッド映画……」
「それにもうひとつ、この街には音楽もあるんでしょ?」
 いたずらっぽくのぞきこむ唯音に、ああ、と悠哉は陽気にうなずいた。そもそも彼は思い切りジャズがやりたくて、日本を離れ、この街に来たのだ。
「とりあえずお茶でも飲むかい? いい感じのティールームがあるよ」
 アカシア並木の下、悠哉がアール・デコ風のホテルのエントランスを指さす。
 唯音は思案するように小首をかしげ、次いで唇を動かした。
「その前に、少し時間が欲しいのだけど。わたしね、やりたいことがあるのよ」
「何だい?」
 疑問符を顔に浮かべる彼に、秘密よ、とくすっと笑う。
「ね、ここのティールームで三十分後に落ち合いましょう」
「僕も行くよ」
「ひとりで平気よ。男の人には関係ないことよ」
「買い物かい?」
「まあ、そんなところね。相変わらず心配性ね。もっとも、そこが悠哉さんのいいところなのだけど」
 お手上げだな、という風に彼は肩をすくめてみせた。
「唯ちゃんは昔から、言いだしたらきかないからな」
「別に危ないことをするわけじゃないわ。こんな大きな通りですもの。きっとすぐに用事は済んでしまうわ」
「……わかった」
 根負けしたように了承する。
「ただし、気をつけて。ここは決して治安のいい街じゃないんだからね」
「はい」
 唯音は神妙に返事をしたが、すぐに笑顔に取って代わり、
「じゃ、三十分後に」
 屈託なくで手を振ると、軽やかに身を翻していく。
 まるで小鳥のようだ。くるくるとよく動いて、少しもじっとしていない。
 南京路の雑踏にまぎれていく後ろ姿を見送りながら、彼は微苦笑した。




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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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