第28話 轟音

文字数 899文字

「唯音」
 蘇州から上海に戻る列車の中、心地よい振動に身を任せていた唯音は彼の呼ぶ声に、はっと眼を覚ました。
「わたし、いつの間にか眠ってしまっていたのね」
「気持ち良さそうに眠っていたけど、もうじき駅に着くからな」
 とっくに陽の落ちた窓の外は闇につつまれ、地平線も見えない。
 市街に近づくにつれ、車窓に灯りが増えていき、やがて列車は上海の北駅に到着した。
「疲れたかい?」
「いいえ、とても楽しかったわ」
 長いホームを歩き、駅舎を出て、唯音が屈託のない笑顔を向けた時だ。
 突然、ドォン、という轟音が体を揺さぶるように響いた。
「何!?」
 音──それも爆発音のした方角に唯音は眼をこらした。日本人街でもひときわ賑わう北四川路の方から煙が上がるのが見えた。
「今のは、いったい……」
 夜空にたなびく煙を眺めたまま、彼が感情のこもらない声で言う。
「爆弾テロだな。上海では珍しいことじゃない」
「テロ?」
 茫然と唯音は彼の言葉をなぞらえた。
 日本の統治に抗して独立を求める市民が破壊活動に走っている──おじや悠哉から聞かされてはいても、実際に遭遇したのは初めてだった。
「ひどいわ……」
 路上に視線を落とし、非難めいた言葉が口をついて出る。
「テロなんて無差別に人を傷つける行為でしかないわ。どうして、そんなこと……」
 そのつぶやきに応じるようにリュウは唯音を見据えた。底知れぬ暗さをたたえた眼だった。蘇州でみせた柔らかさは微塵も残っていなかった。
「どうして、か。唯音、君はこの街をどう思ってる?」
「え」
 唐突な質問に唯音は面食らった。
「どうって……確かに不穏な街ではあるわね。でも自由な空気がある。わたしはそう思うわ」
「自由か」
 唇の端だけ動かしてわずかに彼が笑む。皮肉めいた笑みだった。
「唯音──」
 真剣な口調で名を呼ばれ、唯音も真顔で彼を見つめ返す。
「君に知って欲しいことがあるんだ。少しだけつきあってくれないか」
 彼の意図はまるでつかめなかったが、拒むことのできない真摯な瞳に、唯音はこくりと首を縦に振った。
「いいわ」
 唯音が承知すると、彼は歩き出した。重厚なビルが立ち並ぶ華やかな中心街ではなく、街外れに向かって。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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