第87話 迷宮

文字数 737文字

 虹口(ホンキュウ)地区の唯音のアパート。部屋の前まで来て、そのありさまにリュウは顔をしかめた。
 破られたドア。開け放たれた窓からは激しい雨が吹きこんでいる。室内はめちゃくちゃにされ、ベッドの下からは鞄が引きずり出されて物色(ぶっしょく)されている。
 その様子を見て、リュウはますます眉をひそめた。
 部屋が荒らされ、唯音の姿はなく、避難のためにまとめてあった荷物が放置されているのだ。
 床に散乱した家具を避けて奥の部屋まで進むと、小さなベランダと非常階段が眼にとまる。
 しばらく考えこんでいた彼は、やがて出口に向かって(きびす)を返した。
 あてがあるわけではなかったが、この近辺を捜してみようと彼はアパートを出た。

 路地から路地を走り、建物の陰で唯音は足を止めた。
 激しく息をはずませながら、壁に寄りかかる。汗が流れ落ち、心臓が破裂しそうだった。
 ひとまず追手の気配は消えていた。唯音はあたりを見回し、そこで初めて自分が元の場所──アパートの近くに戻ってきていることに気づいた。
 堂々巡りして、まるで迷宮(ラビリンス)のようだ。
 閉ざされた出口のない迷路。
 どこへ行けばいいのか見当もつかなかった。避難しようとしていた共同租界は爆撃を、黒煙を立ち昇らせているのだ。
 壁にもたれたまま、唯音は顔をしかめ、右腕を押さえた。逃げる途中で撃たれた傷だ。
 逃げている間は夢中だったが、危機がひとまず去ると、傷は灼けつくように痛み、ブラウスを血に染めていく。
 ふっと彼女の顔に自虐的な笑みが浮かんだ。
 このまま死ぬかもしれない。いや、その可能性の方がはるかに高い。
 息をついて共同租界の方を仰ぎ見る。ブルーレディに避難したみんなはどうしただろう。
 廃墟のようにがらんとした街。世界中から取り残されてしまったような、恐ろしいほどの孤独感。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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