第86話 ワルサー

文字数 598文字

「おい、どこへ行くんだ !?
 踵を返し、外へ行こうとする悠哉の腕をドラムスの水澤がつかむ。
「決まってる。戻るんだ。唯ちゃんを迎えにいかないと……」
 悠哉がそう言いかけた時、突然、轟音と振動がブルーレディの地下室に響き渡った。
「何だ !?
「どうしたんだ !?
 口々に叫ぶ仲間たちに悠哉が告げる。
「爆撃だろう。ここに来る途中で、中国軍の戦闘機を見かけた」
「中国の……」
「日本軍も応戦するんじゃないか。いよいよ本格的に戦闘が始まって、街が瓦礫(がれき)の山になるかもしれないぜ」
 重苦しい空気の中、再び水澤が悠哉の腕をつかむ。
「今、外に出てはだめだ! 自殺行為だ」
「でも、唯ちゃんが……!」
「行かせてあげなさい、ミズサワ」
 言い争う二人の間を割るようにして入ったのはアレクセイだった。
「彼はユイネを愛している。止めることはできませんよ」
 アレクセイは、しかし、と口ごもる水澤を手で制するようにして、
「ユウヤ、これを──」
 黒光りする鉄の塊を悠哉に渡した。 
「アレクセイ?」
 いぶかしげに彼を見る悠哉に片眼をつむってみせる。
「外はとても危険だ。ワルサーです。万一のために持っていってください」
 悠哉は黙って手渡されたワルサーを凝視した。ずっしりと重かった。
「使い方はわかりますね?」
「ああ」
 銃を握り、うなずく悠哉の肩にアレクセイがとん、と手を置く。
「必ず二人で戻ってきてください。無事を祈って待っています」

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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