第88話 銃口

文字数 691文字

 ──リュウ。
 不意に懐かしい、愛しい者の名が胸をよぎり、唯音は片手で顔をおおった。
 こんなことになるのなら。あの別れの時、もう一度、愛していると言っておけばよかった。
 裏切りや憎しみ。けれど、それ以上に愛していることを、今頃になって思い知るなんて……。
 後悔にさいなまれる唯音の前に、突然、人影が立ちはだかった。おそらくは彼女を追ってきた、銃をもった暴徒だった。
 憎悪をむき出しにした男が何か叫び、銃口が向けられる。
 ──殺される!
 死の恐怖が唯音を鷲掴みにした。全身が凍りつき、きつく眼を閉じる。
 が、予想に反して銃声は響かなかった。
「……?」
 おそるおそる眼を開けた彼女の前に、意外な光景があった。
 彼女に銃を突きつけた男は地面に倒れ伏し、そしてもうひとり、中国服を着た男がこちらを見つめていた。
その姿を見て唯音は驚愕した。
「リュウ!」
 息を呑み、何度もまばたきする。信じられない想いが彼女を包む。
「あなた、どうして……」
「話は後だ。こっちへ!」
 唯音の手を引き、建物の陰に身をひそめる。彼女の腕に眼を止めると彼は眉根をよせた。
「やられたのか。見せてごらん」
 唯音は言われるままに胸を向け、彼がポケットから布を取り出す。
「……つうっ」
 傷口を布でしばられ、顔をしかめる唯音に語りかける。
「ちょっと我慢してくれ。止血しないといけない」
 うなずいて、唯音は歯を食いしばった。
 応急手当てを終えた彼が顔を上げると、眼が合い、唯音の頬を涙がころがり落ちた。
「夢みたい……また会えるなんて」
 死を覚悟した時、誰よりも会いたかった人。望みが本当にかなったなんて、まだ信じられない気がする。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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