第71話:誕生日~その2
文字数 3,875文字
美砂はかわいい。
彼女の兄とはきょう、学校帰りのファミレスで険悪な雰囲気になってしまったが、小学校のときからの腐れ縁だ。
そのときから一緒に遊ぶことが多く、妹のいる山葉が羨ましいと思うこともよくあった。
母親に「なんで僕には妹がいないの」と言って困らせたこともある。
夕支度をする母親は少し悲しそうな顔をしながら、小学生の俺を見つめるだけだった。
本当は、妹がいたらしい。
それはだいぶたってから、小学5年ぐらいのときに教えられた。
駅の階段を踏み外して転落した母さん。
腹の中には、1つ違いの妹がいたということを。
だから、山葉が妬ましくもあり、美砂に好かれることはとても嬉しいことだった。
「東城さん、学校に戻ったんですね。よかった」
玄関口で美砂は笑顔を絶やさない。
夕方の6時を少し回ったところ。
高校に入ってからは美砂を巡って山葉に殴られたり、殴られる寸前だったことが何度かある。
彼は「春菜と付き合っているオレ」が二股のように自分の妹と親しくなるのが許せなかったのだろう。
だが、山葉にちゃんと説明したとおり、美砂に手を出したことは断じてないし、自分の妹とも思える美砂に手を出すなんてことは、考えることもできなかった。
「美砂ちゃん」
「お邪魔します」
美砂は答えも待たずに部屋に上がると、いつもの茶色いローファーをきちんとそろえる。
1つ下の女の子。
華奢な体つきだが、子猫か子犬のようにちょっとだけ太い、まだ洗練されていない脚。
大人に向かう途中、子供が7割といった感じの、曖昧なかわいさを持つ年頃。
この時期の女の子は高校の3年間で、さなぎから蝶になるという。
あと2年ぐらいたつと、美砂はもっとかわいく、いや、きれいになるのだろう。
美砂が東城の部屋に来たのは小学校以来じゃないだろうか。
「かわってないな、部屋」
交差させた両手を後ろに、上半身だけ部屋に入れて、美砂は上機嫌だ。
「狭いからね。モノあんまり増やせないし。机も昔のまんま」
美砂の後ろに立ち、答える。
性格的には春菜に近いものがあり、活発だ。
そこが一種の安心感となり、妙に肩肘張らなくて済むのが美砂のいいところだ。
美砂も部屋に変化がないことでリラックスしたのか、隅にあるクッションに腰を下ろし、もう一つの小さいクッションを胸に抱いている。
「何か飲むかい? コーヒーでも淹れるよ」
「あ、いいです。私やりますよ」
軽く飛び上がって立つと、美砂は東城の右腕に左腕を絡ませ、勝手知った台所に引っ張っていった。
◇ ◇ ◇
ベッドの端に腰掛け、窓の外の雪を見ている。
背景は黒で、斜めに横切る白ばかり。
学校や部活のこと、昔、一緒に遊んだことなど、他愛のない会話が続いた後の一瞬の静けさ。
「春菜さんのこと、まだ忘れられないですよね」
不意に美砂が独り言のようにつぶやいた。
春菜。
昨日、春菜のことを忘れ、沙貴子と愛し合った。
春菜は…今、何をしてるんだろうか。
謹慎中も頭から離れなかった春菜。
だが昨日、沙貴子と一緒にいて、春菜のことを忘れた。忘れちゃいけないのに。
春菜は、悲しむだろうな。
あいつは、きっと今も思ってくれているはずだ。
ここよりもたくさんの雪が降る不慣れな土地で。
春菜。
東城は春菜のことを、ぽつりぽつりと語る。
一緒に過ごした、楽しかった日々のことを。
美砂は黙ったまま聞き入り、床の一点を見るともなしに見るだけ。
もちろん美砂は知っている。
東城と春菜がどういう関係だったのかを。
今座っているこのベッドで行われたかもしれないことを。
「春休みになったら、遊びに行けるじゃないですか」
慰めの言葉をかけるが、東城は首を横に振る。
「行っても会えないさ」
東城の視線は相変わらず外に向けられており、降り続く雪に春菜の境遇を重ねているのだろうか。
「行ってみなきゃ分からないですよ」
「…どうかな」
「…寂しく、ないんですか」
沙貴子との情事。春菜への背信から来る後ろめたさか。
「寂しいさ」
東城は吐き捨てるように言うと、うつむいてしまった。
「私が。…私が、春菜さんの代わりじゃだめ、ですか」
「…?」
東城の右手に、隣に座った美砂の左手が重ねられる。
その薬指には、学祭の日、せがまれて買った銀色のリング。
「私が、春菜さんの代わりになります」
そのまま体重をかけて抱きつく美砂。
押し倒された胸板に、まだ成長していない小さな膨らみが押し付けられる。
「東城さん」
「‥み‥さ・ちゃん」
「ずっと、好きでした…好きだったんです‥‥恋人に…して、ください」
しがみつく腕になおも力を込め、美砂は離さない。
壊れてしまいそうな、柔らかい体。
胸当ての上に見える肩甲骨の張り。
その横に、肩から外れそうなブラの白いストラップ。
わきの下から背中に腕を回して抱きしめる東城。
ふっと顔をなでる美砂の前髪。
唇が重なる。
◇
◇
◇
ベッドの中。
美砂は胸を合わせたまま東城の背中をゆっくり撫でている。
東城も美砂の髪を触りながら、それ以上は何も言わない。
再び視線を絡ませキスをする。
春菜とも違う、沙貴子とも違う、「妹」だった美砂。
触れることはあっても、それ以上のことは想像もしていなかった、親友の妹。
一つしか違わない歳。
小さいときから動物の兄弟のように遊ぶことはあっても、
「女」を意識することは決してなかった存在。
お互いの歯がぶつかるような、ぎこちないキス。
舌を絡ませ、互いに腕を回し、決して知ってはならぬ背徳の快感と、春菜からも、沙貴子からも得られなかった、融けるような快楽。
東城は、美砂という監獄に幽閉された。
ふうっと、ため息をつく。
上半身を起こした東城の顔を、窓の外の雪がほんのり照らす。
うつ伏せのまま、顔だけ向けて美砂が尋ねる。
「これからも…会って、くれますよね」
「…美砂…ちゃん」
「やだなぁ、ちゃん、なんて付けないでくださいよ」
美砂は布団から出ると、東城のカッターシャツで胸を隠し、部屋の明かりをつけた。
露わになった乱れたシーツが艶めかしい。
「でも、誰にも言わないでくださいよ」
「分かってるさ」
ショーツだけ履き、ベッドの端に腰掛けると、美砂は東城の胸に手のひらを当てる。
「恋人に、なれましたよね」
「…う…ん」
「やったぁ!」
さっきとは打って変わり、普段の美砂らしさで小さなガッツポーズをつくると、嬉しそうにしがみ付く。
「やべやべ」
ベッドサイドのコーヒーカップを脇にあるカラーボックスに移す。
向き直り、もう一度倒れこむように抱き合い、舌を絡ませる。
耳にも舌を這わせ、髪を撫でる。
「…大好きです。東城…さん」
そのとき、枕元のスマホがメッセージの着信を告げた。
帰る30分ほど前に連絡をくれる母親だろうか。
左腕で美砂を抱きながら、右手でスマホを手繰り寄せる。
見慣れぬ番号からのダイレクトメッセージ。
開いた画面に現れた文字は、
「春菜だよ」
◇ ◇ ◇
本文の最初の一行は、差出人そのものの名前、だった。
東城の誕生日を覚えていた春菜。
前のスマホは親に解約されてしまったのだが、話の分かる従姉のツテで手に入れたという。
どうしてもこの日に連絡したくて。
一気に目を通す。
取り留めのない冗談みたいなことが書いてあるが、行間からは会えない辛さや悲しさ、そして、まだ大好きだという気持ちが伝わってくる。
読んでいるだけで彼女の顔が目に浮かぶ。
はるか離れた土地から、本当は自分が電波に乗ってでも行きたいのに、その思いは叶わず、気持ちをデジタルの文字に託し、届けられた気持ち。
「電話しようとも思ったけど、声聞くとわたしきっと泣き出しちゃうから、今度落ち着いたら話そ。だから、元気でいてね」
メッセージはこう、締めくくられていた。
「誰からのですか?」
「…春菜」
「そう…よかった、ですね」
「うん」
「…あ~あ、あっという間に私、お役御免になっちゃった」
「美砂ちゃん」
「ほら、また『ちゃん』って付けてる」
「いや、そう急には…慣れないって」
「見せてください」
美砂はそう言うと東城の手からスマホを取る。
変わらぬ笑顔だったが、一瞬見せた憎悪にも似た目の光を東城は気付くはずもない。
ほとんど無抵抗に美砂の手に渡った薄い端末。
彼女の瞳に写りこむ画面とスクロールされる横書きの白い文字列。
「でも、今ここにいるのは私ですよ」
読み終えた美砂は東城を見据え、目を逸らさない。
「…」
「私だけを見てください」
「み‥さ」
「近くにいて、一緒に過ごせて、いつだって会えるのは、私だけなんだから。東城さん、恋人になったって、さっき言ってくれたじゃないですか」
「ああ‥言った、けど」
「私たち、恋人になったんですよ。ここにいない遠くの人と目の前にいる恋人の私と、どっちを選ぶんですか」
春菜との思い出が頭の中を巡る。
古いもの、つい最近のもの、順番はバラバラだ。
でもその中には、公園や文化祭、初詣で風邪をひいた美砂のこともサブリミナルのように含まれている。
そして、ついさっき、ほんの一瞬前まで行われていた美砂とのこと。
彼女の瞳やうなじ。胸や唇、雛鳥のように柔らかい肢体、制服を脱がしたときの胸の高鳴り…
手を伸ばせばそこにいる、美砂。
美砂というデータが春菜を上書きしていく。
「恋人」という、同じファイル名で。
「好き‥だよ、美砂」
再び重なり合う唇。
美砂の瞳から脳を融かすように入ってくる情念。
「消して、ください‥春菜さんの…メッセ…‥私のこと、恋人だと、思ってくれるなら」
削除しますか?
はい キャンセル
「はい」の文字に重なる親指
美砂の背中に回した手の中で、春菜からの思いは消滅した。