第81話:折れた傘
文字数 5,631文字
虚脱感溢れる朝のプラットホーム。
反対側には、都心方向へ向かうオレンジ色の通勤電車が客を満載して止まっている。
会社にも着いていないうちから、どの顔にもすでに疲労の色。
連休明けの月曜日。
ふぁ~、眠たい。
昨日は一日中、部屋でゴロゴロしていたので、北海道帰りの疲れを取るはずが逆にダルくなってしまった。
元気なのは、かすみだけ。
休み中も店の手伝いをやっていたから、変に生活リズムが乱れることがなかったんだろうな。
でも、眠いだのダルいだの言ってられないな、きょうだけは。
東城に春菜のことを伝えなければ。
内容が重いだけに、何となく億劫な気がするのが正直なところだが、これだけは避けて通れない。
彼女からの手紙も渡さなければならないし、あした、あさってじゃダメなんだ。
「うぃ~っす」「おはよー」
いつもの教室。
7割がたの生徒が集まっている、普段どおりの光景。
まあ、家を出る時間がそれぞれ決まってるんだから、当たり前と言えば当たり前か。
東城の席はまだ空いている。
隣の御山のところも。
あいつには、いつ伝えようか。
朝いきなり、というのもアレだしな。
休み時間じゃせわしない。
一番いいのは、やっぱり昼休みだろう。
久しぶりに会ったかすみと昼飯を一緒したいのはヤマヤマだが、こればかりは。
「おーす」
東城が到着だ。
1本遅いのに乗ってきたようだ。
俺の席の前で捕まえる。
「おす、東城」
「おう。どだった樺太? 春菜に会ったんだってな。あいつからメッセ来たぜ」
これなら話も早い。
妙に気負っていた俺だが、すんなり話に入れる。
「春菜のメッセ、何か書いてあったか?」
「いや、お前に会えて嬉しかったって」
「そうか。それでちょっと話あるんだ。昼休み、時間つくれ。預かり物もある」
これだけで充分。
「昼休み」を指定したことで、あいつも多少時間のかかる話だということが分かったんだろう。
「ん、分かった」と即答だった。
ちらっと振り返り、席に向かう東城の背中を追う。
いつの間に教室に入ったのか、御山はすでに席についている。
ひとことふたこと、挨拶している。
御山・・か。
春菜を助けてやるには東城が必要だ。
御山、悪く思うなよ。
しかし・・・・・
5時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴っている。
東城は、最後まで現れなかった。
授業の内容は何も頭に入ってこないし、聞く気にもならない。
頭には何も入ってこないし、聞く気もない。
空しさと、怒り。
もちろん、それは昼休みに大事な用件を、何の連絡もなく一方的に無視した東城にすべてある。
俺のために弁当まで作ってきてくれたかすみ。
それを断り、ずっと待っていた。
これは百歩譲ってよしとしよう。
だが、最も許せないのは、奴は俺だけでなく、ある意味、春菜までも裏切ったことだ。
「…で、18歳選挙権は投票日と年齢の関係で行使できる者とできない者に分かれるわけだが、選挙の投票日が7月31日の場合、8月1日が誕生日の者について期日前投票と不在者投票の扱いはどうか? 御山」
椅子を引く音。
しかし、答えは、ない。
続く沈黙。
「ちょ、ちょっと大丈夫? 先生!」
かすみの叫び声に、一斉に振り向く。
「‥うう」
顔面蒼白で机に手を突き、立っているのがやっとの御山の姿がそこにあった。
そのまましゃがみ込み、弱々しく片手を机にかけている。
「おい、このクラスの保健委員はだれだ? 保健室に連れて行け。それと隣の、えーっと東城、お前も手を貸してやれ。何て顔してる、急げ」
ざわめきの中、保健委員の吉村に支えられ教室を出て行く御山。
気まずそうに東城が続いた。
◇ ◇ ◇
<5月7日 月曜日 昼休み>
草を分けて入った体育館裏。
人の気配にすずめが数羽、慌てて飛び立っていく。
やや遅れてきた男子生徒。
待っていたのは1人の女生徒。
向き合って立つ。
だがこのカップルが抱き合うことはない。
お互いの暗く険しい表情が、それを物語っている。
「東城さん、答え・・聞かせて」
力なく尋ねるが、目だけは逸らさない沙貴子。
目をつぶっている東城。
すぐには答えようとしない。
それを見た沙貴子は、再度問いかける。
「ねえ、美砂さんとどういう関係なの?」
「どういう関係って…」
沙貴子はきょう、すべてのことを話してもらおうと決意し、登校した。
メッセに返事をくれなくなった東城。
スマホの待ち受けにあった美砂との写真。
5月2日の晩、美砂の家に上がり、出てこなかった彼。
楽しいはずの連休。
部屋から一歩も出る気にならず、胸をかきむしりながら過ごした4日間。
「美砂さんのこと教えてください。昼休みに体育館裏で待ってます」
授業中、ノートに書いたメモをちぎって渡した。
「私たち、付き合ってるんですよ」
「…」
「それなのに、美砂さんと‥」
「さっきから美砂、美砂って言ってるけど、どうして美砂のことが…」
うつむき、力なく微笑む沙貴子。
スマホの画面のこと。
2日の晩のこと。
部屋に入っていった東城のこと。
そして、そのまま出てこなかったこと。
見たこと、すべてを正直に伝えた。
責めるつもりじゃない。
私に不満があるなら言ってほしい。
気に入らないことがあるなら努力するから、恋人でいて。
恥をしのび、プライドもかなぐり捨て、胸の中すべてをさらけ出す。
「本当の彼女にしてくれるって言ったじゃないですか」
すがる言葉。
「なのに、どうして」
「俺は美砂の方が好きなんだ」
うんざりしたように言い放つ。
ハンマーで打たれたような感覚。
湧き出す怒りに、問い詰める。
「どうしてよ! 私、嫌われるようなことした? 何もしてないじゃない! 私、努力したのに!」
言葉は止まらない。
「好きだって言ってくれたじゃない! あれ全部嘘なの?」
肩を掴む。
揺する。
そして
「お前さ、鬱陶しいんだよ。勝手にくっついてきてさ。勘違いしてさ。嫌がってただろ俺。悟れよ、そんなこと」
「…」
「1回やったぐらいで舞い上がりやがって。それでスマホ覗き見して、おまけにストーカーか。は、いい趣味してるよ本当に。なあ?」
「…ひどい」
「美砂はいいやつだぞ。明るくて、かわいくて、俺を慕ってくれて」
「…騙されてるよ…東城さん。ほかが見えなくなってるんだよ…どうしてよ? どうして、あんな子と!」
「あんな子だと? 何も知らねーくせに! 美砂のこと、そんなふうに言うな!」
東城の怒鳴り声が響いた。
そのまま手を振りほどき、立ち去る。
春菜のことで胸に顔をうずめて泣いた場所。
その同じ場所で、彼に別れを告げられた。
もう一人の「春菜」のせいで。
◇ ◇ ◇
<5月7日 月曜日 夕方>
駅前の市内電車乗り場には、沙貴子がいつも乗る2番系統の電車が車内に薄いオレンジ色の照明をともし、停留所に止まっている。
薄暗い空。
ふだん賑やかなはずの駅前も、まだ夕方の5時半だというのに、降り出した霧雨が音までも包み込んでしまったように静かだ。
・
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きょう一日、学校で何があったんだろう。
嫌な一日だったのかな。
それも分からない。
覚えているのは3カ月前の、あの日のこと。
でも、愛してくれたのは、たった、あの一度だけ。
あのときの体温、
あのときの鼓動、
あのときの言葉、
今でも覚えてる。
彼のことを思い、自分で慰めることがあっても満たされるはずもなく。
授業中、気分が悪くなって。
彼が保健室までついてきてくれて。
簡易ベッドで横になっている私が手を伸ばして、
触れようとしたら、
とても困った顔をして、立ち去っていっちゃった。
みんな、私の顔を見ると気の毒そうに目をそらす。
どうしてそんな目で見るのかな。
顔に死相でも出てるみたいに。
そうだった、あはは、わたし、振られたんだった。
お別れの言葉も何もなく。
もう、つきまとうなって、
一方的に言われて。
わたし、もっと好きになってもらおうと思って、
毎日、がんばっていたのにな。
何もする気が起きない。
力も入らない。
ここまでどうやって来たんだろう。
でも、どうして?
私は何も悪いことしていないのに。
惨めだな…
どうしてこんなことに、
なっちゃったんだろう。
前は、手を握ってくれたのに。
腰に腕を回してくれたのに。
そっけなかったけど、それは照れてるからだって、ずっと思ってた。
横にいてくれるだけで、うれしかった。
それなのに、すべては、あの日から。
連休がはじまる、あの日の晩を境に。
それでも信じて、笑顔を向けたのに。
それでも信じて、話しかけたのに。
もっと積極的になって、
こっちを向いてもらおうと思って、
努力して…
気に入ってもらおうとしたのに。
なのに、無視して…
ばかにして
私から幸せを奪った、あの、
・
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・
ステップに足をかけ、傘をすぼめる。
もう一段登り、ふと振り返る。
気の早い夏服で寒そうに歩く一人の少女。
一瞬空を見上げ、駅の反対側に向かう。
目的のある、充実感を漂わせて。
あの、下級生のせい‥‥せい‥‥セイ‥‥性
「すみません」
閉まりかけたドアに手をかけ、飛び降りる。
行き先は…分かってる。
彼の部屋の前に傘をかける。
ワインレッドの傘。
彼と結ばれたときに持っていたのと同じ傘。
お店で同じものを見つけ、喜んで買ったバラの柄の、お気に入りの傘。
◇ ◇ ◇
<5月7日 月曜日 夜7時>
「…美砂」
息も荒く、彼女の胸に倒れこむ。
合わせた唇を離すと、糸を引くように銀色の唾液が輝いている。
仕事を持つ母親は不在がち。
連休以来、激しさを増し繰り返される、2人だけのとき。
東城の頭を撫で、彼が眠りについたことを確認すると、美砂はそっとシャワーに立った。
火照った体には熱いシャワーもぬるま湯のようにしか感じない。
立ち上る湯気。
体を拭き、皺だらけの制服を再び身につける。
ベッドの端。
カバンからブラシを取り出し、髪を丹念に整える。
背中には、寝息を立てている彼がいる。
はだけたままのカッターシャツ。
その開いた胸に軽くキスをすると、優しくボタンを留め、美砂は名残惜しそうに部屋を後にした。
「何しにきたんですか」
東城の家のドアの前。
美砂が部屋を出ると、そこには沙貴子の姿があった。
この人、私たちのこと知ってて、つけてきたんだ。
すべてを悟った美砂。
なら話は早い。
「彼は疲れて寝てますから、お引き取りください」
美砂は表情も変えずに言い放ち、ドアの前からどこうとしない。
「疲れているなら、あたしが癒すわ。山葉さんこそ、さっさと帰ったら? お兄さんが心配してるわよ」
「帰るのはあなたですよ、御山先輩。お母さんに怒られますよ」
「あなたみたいな子供と一緒にしないでくれるかしら」
「子供って、歳ひとつの差じゃないですか。そんなことも理解できないんですね」
静かな声だが、押し殺したような迫力が込められた応酬。
一歩も動かず、目もそらさない。
「東城さんは私の彼です。合鍵だって持ってるんです」
誇らしげに進み出て、沙貴子を威圧する。
身を翻し、立ち位置を変える。
「そんなもの、どうせ盗んで複製したんでしょ」
「盗んだ? 自分はどうなんです? ストーカーのくせに」
「人聞きの悪いこと言わないでくれるかしら。さすが、覗きをやったお兄さんの妹さんね」
嘲るような沙貴子の表情。
「本当のことを言っただけですよ、御山先輩。残念ですが、私たちの方が付き合いは長いんです」
「長ければいいのかしら? 幸せね、このメスガキ」
「春菜さんがいたときは言い出すこともできず、いじけてた人が何を」
通路に響く乾いた音。
左頬を押さえ、睨み返す美砂。
直後、美砂の右手も、沙貴子の頬を捉えた。
しばしの沈黙。
ゆっくりと、スローモーションのように向き直る沙貴子。
そのまま一歩前に進み出る。
反射的に半歩下がるが、通路の壁が美砂の後退を阻む。
「ねえ、山葉さん」
いなくなってくれればと思っていた春菜。
その彼女がいなくなったのに、現れた美砂。
それはもう1人の「春菜」。
合鍵を持っている美砂の華奢な右手首を掴み、ねじ上げる。
そのまま押され、のけぞる美砂。
顔にかかる雨粒。
「や、やめて‥ください」
半身ほどの高さしかない通路の壁。
下は駐車場のアスファルト。
仕切りの白線が濡れ、街路灯に光っている。
「消えなさいよ」
声のトーンは変わらないまま。
ねじ上げる沙貴子の手は力を緩めない。
「消えなさいよ」の意味するところは何なのか。
もう東城の前に現れるなということなのか、それとも…
手から離れた合鍵が、遠い下の方で悲鳴を上げた。
殺、され、る
美砂は全身の力を込め、右足で沙貴子をはねのける。
相手が脇腹を押さえ、尻餅をついている間に部屋へ駆け込む。
だが、髪を後ろから鷲掴みされ、叩きつけるように玄関の床に引き倒された。
「助けて! 東城さん!」
鬼の形相の沙貴子。
背中を踏みつけにする。
腹を蹴りつける。
苦痛で仰向けになったところへ、容赦なく蹴りこむ。
異常に気付いた東城。
美砂をとっさに後ろへ隠し、立ちはだかった。
「やめろ!」
--ああ、この前この部屋に入ったとき、わたしは
とたんに涙が溢れてくる。
--わたしのこと、ここで抱いてくれたのに…
思い出し、悔しくなる。
東城は視線を逸らさない。
--あの日もこんなにまっすぐ、私のこと見てくれたのに。
「勝手に手を握って、彼女のような気になってただけじゃない。東城さん、迷惑がってたんだから」
東城の後ろ。
咳き込み、痛む体を押さえながらも、怒りに満ちた声を突き刺す美砂。
「わたしだって、東城さんと…寝たのよ」
憑かれたような虚ろな表情。
目の中に灯る、あの日の情景。
語る声は、あくまで静かで、不気味だ。
「そんなの妄想よ。そうでしょ、東城さん」
私の初めての、人。
私を優しく抱いてくれて
とても優しく
愛してるって
「お前なんかと寝た覚えはない」
そ、んな…
「ほーら、最っ低な人」
「帰れ、御山。二度と来るな」
目から、光が、消えて、いく…
手にしているのは傘。
あの日と同じ傘。
獣のような声をあげ、振り下ろす。
美砂をかばった東城の背中と鈍い音。
泣きながら走り去る女。
残された、折れ曲がった傘が一本。
ワインレッドの、
思い出の。