第56話:けがをした妹
文字数 3,955文字
「しかし、酷いことする人いるわね」
文化祭の後片付け。
教室に集まった生徒の間では、朝だというのにすでに話は伝わっているようだ。
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昨夜、家に逃げ帰ってそれほど時間のたっていないころ、一本の電話がかかってきた。
盗み聞きと、逃げるときに女生徒を地面に叩きつけてしまった罪悪感から、電話に出るのが何となく怖かった。
一度はスルーしたものの、5分と待たず、またかかってくる電話。
普段、東城たち友人との間ではトークやスマホ通話でのやり取りだ。
それは樺太に行っている両親との間でもそう。
だから、こんな夜に家電にかけてくるのは、違う事情のある人物からに違いないと思ったからだ。
セールスの電話なら昼間だろう。
受話器に手を伸ばすが、取り上げる勇気が出ない。
スマホは落としたまま。
ひょっとして、スマホに出ないことを不審に思った親か、あるいは、事情を知っているかすみとか東城が、結果がどうだったのか知りたくて連絡でもくれているのか。
家に帰ってきたのは、まだ11時前。
最初に帰ろうとしたとき、坂の途中で東城に時間を聞かれたのが9時半だったから、その後学校に戻り、体育館での一件があったにせよ、猛スピードで帰宅したので、電車の待ち時間なんかも考えると、驚異的なスピードといえる。
美砂はまだ帰ってきていないようだ。
部活で出し物をやった生徒は打ち上げみたいなことをするとも聞く。
そういった催しにでも顔を出しているんだろうか。
メッセか何か入ったにしても、スマホがここにない以上、確認はできない。
2度目の電話も切れたが、間髪いれず、
さすがにこれは出ないと拙いか。
どうせ「なぜ出ない」となじられるだろうが、今帰ったところだと言えばいいだろう。
こんなときナンバーディスプレーだったら、などと思っても仕方ない。
クリーム色のプッシュホンの受話器を上げる。
「おい、山葉か!」
声を聞いたとたん、俺は震え上がった。
それは、予想した中では最悪の相手、穐山からの電話だったからだ。
「お、おう。ど、どうしたんだいったい」
努めて平静を装うが、手に汗が滲んでいるのが分かる。
「どうしたんだではない」
穐山は酷く怒っているようで、俺は半ば観念した。
これは、盗み聞きがバレたに違いない。
後姿で分かる筈はないとタカをくくっていたが、クラスメートなんだし、観察眼の鋭い穐山のことだ、俺だと確信する何かを掴んだんだろう。
「貴様、なぜスマホに出んのだ」
「いや、落としちまってさ」
何を隠しても無駄だろう。
スマホをなくしたことも正直に言う。
ひょっとして体育館の近くででも、スマホが拾われているということも考えられるからだ。
「まあ、それはよい。それよりだな、」
いよいよか。
「貴様の妹が暴漢に襲われ、救急車で病院に運ばれたぞ」
「な!」
穐山の説明によるとこうだった。
穐山と紀伊國は文化祭での部のイベントの後始末で、体育館に残っていたのだという。
まあ、これは理由としてはウソだが、体育館にいたのは事実だ。
すると、体育館の外で不審な気配がする。
外に出てみるとちょうど男が走って逃げるところで、穐山も追いかけた。
しかし、その男は猛烈なスピードで走ったまま、ちょうど部室棟近くにいた美砂に背後から激突。
地面に叩きつけられた美砂は脳震盪を起こしてしまったのだという。
穐山は追うのを諦め、救急車を呼んでくれたんだそうだ。
今は美砂に付き添って、病院にいるのだという。
ああ、何てことだ。
俺があの時ぶつかった女の子は美砂だったのだ。
人の秘密を盗み聞きし、あまつさえ自分の妹を病院送りにしちまうなんて。
くそっ、何て人間なんだ俺は!
しかもこんなこと、死ぬまで誰にも言えやしない。
「貴様、聞いているのか!」
憔悴し、返事もできない。
脳震盪なんてよく聞く名前だが、頭だよな。
なんか他に悪いことでも起きなければいいが。
ああ、美砂ごめん! ごめん!
自分の頭をすぐそこの柱に叩きつける。
「…ということだから、貴様も早く病院に来い!」
朦朧とし、まとまりのない頭で何とか病院名と場所を聞き、俺はタクシーで向かった。
◇
◇
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「なんにせよ、軽くてよかったわよね」
ホウキを手にしたままのかすみに慰められる。
美砂は一晩だけ入院し、午後には退院だ。
きょうは文化祭の後片付けだけなので、これが終われば迎えに行く。
どの面さげて、とも思うが、こんなこと言えるわけはない。
胸の奥底に突き刺さった、決して抜くことのできないトゲ。
大事には至らなかったとはいえ、これから一生、美砂の顔を見るたびに、このトゲはうずくはずだ。
「山葉、俺も行くわ」
真顔の東城に話しかけられる。
奴も一緒に病院へ迎えに行く気なのだろう。
いろいろなことはあるにせよ、東城が美砂のことを心配しているのは、純粋に俺の妹で、その妹が正体不明の男に蹴り倒されて怪我をしたことを気遣ってだろう。
それも校内で。
学校では夜間の警備を強化することになり、警備会社とも相談しているらしい。
それまでの間は教職員や体育会系の男子生徒を中心に、パトロールもするという。
校内の駐車場にはパトカーが止まり、昨晩に続き現場を調べているようだ。
「美砂ちゃん、かわいそうだね。怖かったろうね」
文化祭で嫌なことがあったにせよ、春菜だって心配している。
学校の中で不審者に襲われたんだ。
同じ女生徒として他人事ではあるまい。
ああ、しかし、これはそんな大層な事件じゃないんだ。
俺だけがすべてを知っている。
実に単純で下らない、クソみたいな理由で起きたことなのに…
なんでだ、なんでこうなる。
気まずそうに返事をする俺は、クラスの連中からは憔悴しきった兄に見えたことだろう。
美砂、そしてみんな、本当にごめん。
美砂が運びこまれたのは隣町・太刀川市にある救急指定病院だった。
あの時間、美咲や彩ケ崎の病院はどこも満床だったらしく、近場で空いているのはここだけだったのだそうだ。
病室に着くと美砂は既に身支度を整え、いつでも退院できる様子だ。
夜のうちに警官がやってきて、あれこれ事情を聴かれたらしいが、あとは病院の手続きが済めば終わりらしい。
美砂の担任である佃先生や部の顧問、上級生ら関係者は午前中に見舞いに来たという。
「美砂のこと、しっかり支えててよ。私もすぐ行くから」
先日樺太に戻ったばかりの母は午前の直行便が満席だったため、千歳経由で夕方には戻ってくるという。
病院の出迎えは俺と東城のほか、かすみ、春菜、穐山、紀伊國の6人でやってきた。
「美砂ちゃん」
病室に入ると、真っ先に東城が声を掛けた。
その瞬間、美砂は目に涙をためて「怖かったです」と東城にしがみついた。
美砂にしてみれば本当に不審者に襲われたわけだから、今でも恐怖を引きずり震えている。
地面に叩きつけられたときについた手や脚の傷はかすり傷程度だったとはいえ、膝や両手に巻かれたガーゼが痛々しい。
事情が事情だけに、しがみついている美砂を見ても俺は何も言えない。
それは春菜も同じだろうに、かすみと2人で肩や背中を抱いて沈痛な表情で慰めている。
「捕まえたら俺が叩きのめしてやる」
吐き捨てるように言う東城の顔は怒りの色に満ち、悔しそうに拳を握り締めた。
ひとしきり東城にしがみついたことで少しは落ち着いたのか、美砂の顔色も戻った感じだ。
「何にしても、怪我も軽くてよかった。不幸中の幸いだ」
それを見て取ったか、穐山が声を掛けると、美砂は東城から離れ、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
それを見て俺も慌てて感謝の言葉をかける。
「それにしても、本当に逃げ足の速い奴だった」
穐山は昨晩のことを語り始めた。
彼女も午前中には警察の聴取を受けたそうで、その場でも同じ内容を話したという。
「でも、穐山がいて本当に良かったな」
「良くはない」
東城はフォローを入れた、が穐山にしてみれば不審者を取り逃がしたことがどうにも口惜しいはずだ。
俺が美砂にぶつからなければ、あるいは捕まっていたかもしれない。
それほどまでにあの追撃は鬼気迫るものがあった。
「月もなく、暗かったですから」
紀伊國も相槌を打つ。
「日が暮れるのも早いから、部活帰りの人は気をつけないとだね」
春菜は何の気なしに本当の思いを口に出したのだろう。
だが、これがある引き金を引くことになるとは思ってもいなかったに違いない。
それは俺だって同じだった。
「しばらく一緒に帰ってもらえませんか」
話がひと段落しかけたとき、うつむいたままの美砂が漏らした。
美砂はこんなこともあったため、しばらくは部活を休むという。
授業が終わる時間はまだ十分に明るいが、一人で帰るにはやはり不安。
部活もなく、すぐに帰れる東城と春菜に家まで送ってほしいというのだ。
俺はちらっと春菜の顔を窺った。
彼女は東城とも美砂とも視線は合わさず、そらしている。
春菜にしてみれば美砂の気持ちは分かるけれども、それとこれは違う。
やはり面白くないという思いはあるだろう。
しかも、反対なんかできるわけもなく。
東城も昨日の文化祭のとき、指輪を巡って春菜と美砂が険悪になったのを目の当たりにしているため、微妙な表情だ。
しかも「兄貴は、部活のあるかすみ先輩を送ってあげて」
と、断れない、あざとい理由を持ち出し、俺は遠ざけられる。
かすみも事情を知ってはいるが口を挟むこともできず、視線は宙を彷徨っている。
しかし、何も知らない穐山と紀伊國にとって、この提案は実に素晴らしい内容だったのだろう。
「それはいい考えだ」のひと言で、あっさり結論を出されてしまった。
「よろしくお願いします」
いつになく殊勝に頭を下げる美砂に、東城は「うん、そうしよう」と応じ、俺も、かすみも、春菜も、誰も反対できない雰囲気の中、2人の「契約」は成立してしまった。